[原風景 歴史街道 史跡・遺跡] 中項目・目次         HPのトップへ
1.原風景  2.歴史街道  3.史跡・遺跡
3.史跡・遺跡  京都 東福寺西郷 長楽寺頼山陽 百々橋 不審庵今日庵 高瀬川 映画発祥地 小督の局 落柿舎去来の墓 嵯峨天皇皇女墓 
西行庵跡 六勝寺跡 あげまき古跡 北政所御殿 小倉飴発祥地 円山應挙誕生地 蕪村宅跡 築地塀 能楽発祥地 松花堂 鳥羽離宮跡 

奈良 
高松塚 石舞台 甘樫丘 西大寺 本薬師寺跡  平城宮 藤原亰 文殊院古墳 垂仁天皇陵 雪消澤 新薬師寺旧跡 森鴎外の門 
志賀直哉旧居 頭塔   滋賀
 穴太積 石山貝塚 草津宿本陣 朝鮮人道   大阪   兵庫  岡山  福井  高知  

京都の史跡・遺跡
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京都市
都市東山
東福寺 即宗院
清水寺月照上人 西郷隆盛密議の地

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京都市東山区東福寺塔頭即宗院にて(1月) 月照と西郷の密議の地 採薪亭跡 クリックで拡大
清水寺
に月照上人と西郷隆盛の辞世の句碑がある。

  
京都市東山区東福寺にて(1月) 塔頭即宗院 薩摩藩士東征戦亡之碑 建碑のいわれ クリックで拡大


京都市東山区東福寺にて(1月) 塔頭即宗院パンフレット クリックで拡大


京都市
都市東山
長楽寺 頼山陽墓石他

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京都市東山区長楽寺にて(10月) 頼山陽 頼三樹(頼山陽の三男)の墓標 参道標 
クリックで拡大

  
京都市東山区長楽寺にて(10月) 左写真は長澤蘆雪(円山応挙の高弟)の クリックで拡大
中央は竹本源大夫(人形浄瑠璃文楽の物語を語る太夫)の
右は武元登々庵(たけもと とうとうあん)<1767〜1818>「有往皆収無垂不縮」
「往くとして皆収まるあり 垂るるとして縮めざるはなし」(駒札
武元登々庵は漢詩人・書家・医者。名は正質。字は景文。号は登々庵・行庵。和気郡北方村(現岡山県
吉永町岩崎)の和七郎の長男に生まれる。幼少から学問を好み、閑谷学校では、神童といわれた。(参考




都市
百々橋(どどばし)

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京都市上京区の宝鏡寺の近くにあった
応仁の乱の戦場の一つ


 
京都市百々町にて(11月) 宝鏡院の東にある 応仁の乱の戦場の一つ「百々橋」の礎石
写真および説明板をクリックで拡大


不審庵
京都市
不審庵、今日庵
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千利休、千宗旦の旧宅
現在、表千家、裏千家の家元の居宅
京都市上京区の
宝鏡寺、本法寺に隣接する

   
京都市上京区にて(11月) 表千家「不審庵」 玄関 右は千利休居士遺跡不審庵の碑  写真クリックで拡大

 
京都市上京区にて(11月) 表千家「不審庵」 表千家資料

 
京都市上京区にて(11月) 表千家「不審庵」 不新案の写真へ

 
京都市上京区にて(11月) 裏千家「今日庵」 右は千宗旦居士遺跡今日庵の兜門 裏千家資料  写真クリックで拡大
裏千家の宗家である今日庵は表千家不審庵と並んで建っている。 裏千家は表千家の北側(裏側)にある。

 
京都市上京区にて(11月) 裏千家「今日庵」 右は千宗旦居士遺跡今日庵の碑 写真クリックで拡大
裏千家資料

 
京都市上京区にて(11月) 堀川通りに面して立つ表千家会館
裏千家センターの南側

 
京都市上京区にて(11月) 堀川通りに面して立つ裏千家センター(表千家会館の北側) 


木屋町
木屋町
高瀬川(たかせがわ)

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高瀬川は江戸時代初期(1611)に角倉了以素庵父子によって、
京都の二条あたりから伏見を結ぶために物流用に開削された約10Kmの運河である


京都市木屋町にて(10月) 高瀬川

 
京都市木屋町にて(10月) 高瀬川沿いの先斗町付近


京都市木屋町にて(10月) 高瀬川沿いの先斗町付近龍馬通り付近

 
京都市木屋町にて(10月) 高瀬川にかかる橋 右は坂本龍馬のお龍寓居跡の碑(クリックで拡大

 
京都市木屋町にて(10月) 角倉了以像と彼が掘削した高瀬川の沿革案内板(クリックで像と案内板を拡大


木屋町
木屋町
日本映画発祥の地

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京都市木屋町高瀬川沿いにて(10月) 日本映画発祥の地(元立誠小学校) クリックで拡大
稻畑勝太郎が我が国で初めて映画の試写に成功した処  谷口正晃監督は立誠小学校の卒業生


H29.7.29記事 今迄明治初期に建てられた小学校が「立誠シネマ」館として映画上映されてきたが、
今後は校舎が改造されて、ホテルや文化施設の複合施設となる。 
クリックで拡大

 
京都市木屋町高瀬川沿いにて(10月) 佐久間象山、大村益次郎遭難の地 
クリックで拡大


  
嵐山
小督局の琴きき橋

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京都嵐山渡月橋にて(11月) 琴きき橋跡碑(写真左は車折神社前、写真右は渡月橋北詰)
小督局 (こごうのつぼね)という美女の悲恋物語のゆかりの橋の跡



  
嵐山
俳人向井去来の庵
落柿舎
 去来の墓

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京都嵯峨小倉山にて(11月) 史跡 落柿舎

 
京都嵯峨小倉山にて(11月) 向井去来の墓

 
京都嵯峨小倉山にて(11月) 落柿舎


  
嵐山
嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓

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京都嵯峨小倉山にて(11月) 有智子内親王墓


  
嵐山
西行法師庵の跡

西行法師ゆかりの龍門橋(歌詰橋)

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京都嵯峨二尊院にて(11月) 西行法師庵の跡
我がものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより

 
京都市嵯峨にて(11月) 歌詰橋 龍門橋 JR嵯峨嵐山駅〜天竜寺へ行く旧街道にある酒屋で、昔
つぼの内にほひし花はうつろひて霞ぞ残る春のしるしに
の返歌に詰まった西行に因んで歌詰橋といわれた クリックで竜門橋の駒札拡大


  
東山
岡崎公園辺りにあった
六勝寺

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平安時代、京都市美術館の辺りに法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺
と「勝」の字がつく6つの寺があり「六勝寺」と呼ばれていたが、応仁の乱で消失した。
岡崎公園を流れる疏水沿いに、六勝寺の小径碑が当時を偲ばせる。


京都市左京区琵琶湖疏水にて(11月) 六勝寺の道

石碑の後は琵琶湖疏水、その向うに京都市美術館がある。


  
宇治市
あげまきの古跡

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宇治市 さわらびの道付近にて(2月)
あげまきの古跡石標とさわらび道標(
クリックで拡大)


 
東山
北政所御殿跡

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東山圓得院前 北政所御殿跡(TM氏)
 地図


  
嵐山
小倉飴発祥の地

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小倉飴発祥の地 嵐山二尊院にて(11月)(TM氏)



  
亀岡市穴太寺
円山応挙誕生地

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京都府亀岡市曽我部町穴太寺にて(10月)  圓山應挙誕生地 
江戸時代中期の絵師 享保18年(1733)丹波国桑田群穴太村に農家の次男として生まれ、
狩野派の石田幽汀
(ゆうてい)に学び、写生を重視した円山派の祖


  
京都市

与謝蕪村宅跡

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蕪村生誕地へ


下京区仏光寺通りにて(12月)(TM氏)
与謝蕪村宅 蕪村終焉の地



   
長岡京市
築地塀(復元)

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京都府長岡京市名神高速道路桂川PAにて発掘
 築地塀(ついじべい)復元 写真クリックで説明書 
 古来の塀の色々


  
京田辺市一休寺
薪能金春芝旧跡

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京田辺市にて(4月) 一休寺一休坂前 薪能金春芝旧跡の碑 クリックで拡大 

  
京田辺市にて(4月) 薪神社内 能楽発祥の碑 クリックで拡大


  
八幡市松花堂公園
松花堂

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京都市八幡市松花堂にて(10月) 松花堂弁当の発祥地 松花堂


京都市八幡市松花堂にて(10月) 松花堂泉坊書院

 
京都市八幡市松花堂にて(10月) 松花堂門 草庵茶屋 クリックで拡大東車塚古墳



京都市八幡市松花堂にて(10月) 松花堂内園の東車塚古墳
クリックで拡大


  
京都市伏見区
鳥羽離宮跡

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白河・鳥羽・後白河の3代の院政の舞台
鳥羽離宮は桂川と鴨川に挟まれた土地に位置し、京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島辺り(地図参照)に
あった。現在の近鉄竹田駅、名神高速京都南インター、城南宮、鳥羽離宮跡公園付近の東西約1.2〜1.5km、南北約1kmに
御所、庭園、仏堂などが営まれた。都の朱雀大路の延長線上にあり、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇の院御所で、
鳥羽殿、城南離宮とも呼ばれた。敷地面積は180万平方メートル。南殿(現在の鳥羽離宮公園あたり)、北殿、泉殿、
馬場殿、東殿、田中殿などが相次いで建設され、白河・鳥羽・後白河の3代の院政の舞台となった。

また、維新の鳥羽伏見の戦い戊辰戦争)の舞台でもあった。

 
京都市伏見区にて(5月) 鳥羽離宮公園 クリックで拡大


鳥羽離宮の地図 参考資料より

 
京都市伏見区にて(5月)鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発地(小枝橋)説明碑   クリックで拡大
慶応4年(明治元年)1月3日の夕方、幕府軍と薩長軍が鳥羽の小枝橋から城南宮付近で激突。
鳥羽伏見の戦いが始まった。この戦いが1年半におよぶ戊辰戦争の幕開けとなった。

 
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発地(小枝橋)説明碑   クリックで拡大



奈良
奈良の史跡・遺跡
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奈良県明日香村
高松塚古墳

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明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区 高松塚壁画館

 
 
明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区案内図  高松塚壁画館案内板 各写真をクリックで拡大



明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚古墳 東斜面

 
明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚古墳 東斜面と右斜面

 
明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚古墳 周辺

 
明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚古墳周辺公園


明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区

 
明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区


 
明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚古墳の東西南北の四神を花で造形 クリックで説明板拡大


明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区公園休憩所


 
明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚地区 国立飛鳥歴史公園館前のモニュメント 写真左クリックで石表面の描画を拡大

 
明日香村にて(4月) 国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区 国立飛鳥歴史公園館


 
明日香村にて(4月) 国立飛鳥歴史公園館 別館(高松塚古墳の壁画を保管)

 
明日香村にて(4月) 国立飛鳥歴史公園館事務所 写真クリックで拡大


明日香村にて(4月) 国立飛鳥歴史公園館付近


明日香村にて(4月) 国立飛鳥歴史公園館
館前の句碑 
写真クリックで拡大



  
奈良県明日香村
特別史跡
石舞台古墳
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墳土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた
横穴式石室
が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。(参考



奈良県明日香村にて(5月) 国営飛鳥歴史公園
石舞台地区 石舞台古墳入口 
写真クリックで駒札拡大



奈良県明日香村にて(5月) 国営飛鳥歴史公園 石舞台地区 石舞台古墳(東南より) 参考資料


 
奈良県明日香村にて(5月) 国営飛鳥歴史公園石舞台地区碑と説明板
写真クリックで夫々拡大表示します 公園マップ ロゴマーク


 
奈良県明日香村 国営飛鳥歴史公園 石舞台地区 にて(5月) 石舞台古墳(南西入口)
写真左は入口外部から 右は内部から見た写真



奈良県明日香村にて(5月)  国営飛鳥歴史公園 石舞台地区 石舞台古墳(北東より)


奈良県明日香村にて(5月)
国営飛鳥歴史公園 石舞台古墳(内部より天井部)



奈良県明日香村にて(5月)  国営飛鳥歴史公園 石舞台地区 石舞台古墳(西北より)

 
奈良県明日香村にて(5月) 国営飛鳥歴史公園 石舞台地区 石舞台古墳内部


奈良県明日香村にて(5月) 国営飛鳥歴史公園 石舞台古墳の石棺(復元)

 
奈良県明日香村にて(5月) 国営飛鳥歴史公園 石舞台地区 石舞台古墳(東南より)
 右は(南より)

 
奈良県明日香村にて(5月)  国営飛鳥歴史公園 石舞台地区 石舞台の周辺


奈良県明日香村にて(5月)  国営飛鳥歴史公園 石舞台地区


  
奈良県明日香村
史跡甘樫丘

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標高148mの
丘が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区である。展望台があり、大和三山、
藤原京などを望める。公園北側の豊浦に、7世紀頃の建物跡や石垣が発見されたが、蘇我
蝦夷
蘇我入鹿親子の壮大な邸宅跡と思われる。蘇我蝦夷の父蘇我馬子の墓は石舞台古墳
推定されている。蘇我氏は、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らの乙巳の変によって、
蘇我入鹿暗殺され、蝦夷が自殺するとその勢力は大幅に低下し、大化の改新
が行われた。蘇我入鹿の首塚はこの丘の東方、飛鳥寺にある。


 
奈良県明日香村甘樫丘にて(5月) 川原展望台


奈良県明日香村甘樫丘にて(5月) 川原展望台より畝傍山と二上山


奈良県明日香村甘樫丘にて(5月) 川原展望台より耳成山

 
奈良県明日香村にて(5月) 甘樫丘散策路

 
奈良県明日香村にて(5月) 甘樫丘散策路


奈良県明日香村にて(5月) 甘樫丘から飛鳥寺方面


奈良県明日香村にて(5月) 甘樫丘から岡寺方面


  
奈良市西大寺
史跡西大寺境内

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奈良市西大寺にて(1月) 真言律宗総本山西大寺境内

西大寺東塔跡

 
奈良市西大寺にて(1月) 真言律宗総本山西大寺 東塔跡


奈良市西大寺にて(1月) 真言律宗総本山西大寺本堂、東塔跡


  
橿原市
本薬師寺跡

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本薬師寺は、日本書紀によると天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病平癒を祈念して
発願した寺である。その後平城京遷都に伴い養老2年(718)に平城京右京六条ニ坊に移転され、
現在に至っている。寺が移転した後も平安時代中頃まで伽藍が存在し、平城京の薬師寺に対して
本薬師寺と呼び、区別された。伽藍は、中心に金堂、その前面左右対称に東・西塔を配置し、
南に中門を開きその両翼から回廊を巡らせ金堂北側の講堂に取り付く、
いわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれているものであった。 薬師寺へ



奈良県橿原市にて(12月) 本薬師寺跡 写真クリックで説明版

 
奈良県橿原市にて(12月) 本薬師寺跡


奈良県橿原市にて(12月) 本薬師寺跡


  
奈良市
平城宮跡

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丁度100年前の明治43年(1910)に、平城遷都1200年祭が行われた。2年後に
奈良大極殿趾保存会が設立され、広大な遺跡は保存・発掘され古都が復元されつつある。
平成22年(2010)遷都1300年祭が平城宮跡を中心に開催された(H22.5.11撮影)


奈良市平城宮跡にて(5月)再現された第1次大極殿と周辺の遺跡(1.3Km四方)遷都1300年祭

 
奈良市平城宮跡にて(5月) 第一次大極殿(復元) 世界遺産碑

 
奈良市平城宮跡にて(5月) 大極殿の高御座たかみくら  大極殿の鴟尾

 
奈良市平城宮跡にて(5月) 東院地区発掘現場 遺構展示館


奈良市平城宮跡にて(5月) 平城宮跡資料館 

奈良市平城宮跡にて(5月) 奈良文化財研究所

 
奈良市平城宮跡にて(5月) 遣唐使船の帆

 
 奈良市平城宮跡にて(5月) 平城京歴史館 右は遣唐使船復元

 
奈良市平城宮跡にて(5月) 朱雀門 役1Km北方に大極殿が見える

 
奈良市平城宮跡にて(5月) 東院隅櫓 東院庭園


奈良市平城宮跡にて(5月) 宮内省 

棚田嘉十郎像(右)
平城宮跡の保護に尽力を注いだ
奈良公園の植木職人。
平城宮跡を保存する為、
多くの著名人の署名を集め地元有志に
援助を求め、1910年(明治43年)に
平城遷都1200年祭を成功させ、
1913年(大正2年)には
「奈良大極殿趾保存会」が設立された。


 奈良市平城宮跡にて(5月)
 遺跡保存功労者
 棚田嘉十郎像


  
橿原市
藤原京跡

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平城京へ遷る前、十数年の短い都であった

 
橿原市にて(12月) 藤原京の道路跡の碑


 
橿原市奈良文化財研究所にて(12月) 藤原京山田寺遺跡の塀(写真)
右は藤原京から発掘された木簡と似顔絵


 
橿原市にて(12月) 奈良文化財研究所 展示室 木簡(複製)


 
橿原市にて(12月) 奈良文化財研究所 発掘調査部 


 奈良県橿原市にて(1月) 藤原京跡(南方面) 大宮土檀(藤原京の大極殿跡) 

 
奈良県橿原市にて(1月) 藤原京跡東部の醍醐町 香具山方面 耳成山方面

 
奈良県橿原市にて(1月) 藤原京跡(西畝傍山方面) 二上山を遠謀
 右は醍醐池と耳成山

 
 奈良県橿原市にて(1月) 藤原京跡説明板 大宮土檀(藤原京の大極殿跡) 藤原京跡指定碑 クリックで拡大


 奈良県橿原市にて(5月) 醍醐町 藤原京跡の東部付近 左に耳成山、後ろに畝傍山、右に天の香具山


奈良県橿原市にて(5月) 藤原京跡東部の醍醐町にある
浄土宗醍醐山是信寺


奈良県橿原市にて(1月) 藤原京跡内 鴉公神社

 
 奈良県橿原市にて(5月) 藤原京跡東部の醍醐町 正面は耳成山


  
桜井市
安倍文殊院古墳
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桜井市安倍文殊院にて(6月) 文殊院西古墳の奥  右は同(12月)


桜井市安倍山文殊院にて(6月)  「史跡文殊院西古墳」

 
桜井市安倍文殊院にて(12月) 史跡文殊院東古墳



  
奈良市
垂仁天皇陵
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奈良西ノ京にて(5月) 垂仁天皇陵 


  
奈良市
雪消澤古跡

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奈良県奈良公園
「飛火野」にて(10月) 
鹿苑の雪消澤
ゆきげのさわ
古跡の碑
 
崇徳天皇が
院になられて詠まれた歌、
「風雅集巻1」より
春来れば 
雪消澤に袖たれて
まだうらわき
若葉をぞつむ


  
奈良市
新薬師寺旧境内

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奈良市新薬師寺にて(9月)
新薬師寺の旧境内の遺跡が
奈良教育大学の構内で発見され
発掘された。元の新薬師寺は
東大寺に次ぐ大きな建築で
あったと云う。

掲示板の写真クリックで拡大


  
奈良市
森鴎外の門

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奈良県奈良公園にて(10月) 国立博物館長を務めた 森鴎外の屋敷門 鴎外の歌碑と門の由来碑
 写真クリックで由来説明文    歌は歌碑の頁へ


  
奈良市
志賀直哉旧居

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近代日本文学の代表で、戦後に文化勲章を受章した志賀直哉<1883〜1971>
が昭和4年に新築し昭和13年まで住んだ旧居。現在は奈良学園が所有する。

志賀直哉は明治16年(1883)父の任地宮城県石巻市に生まれ、学習院を経て、東京帝大文学部英文学学科へ。
直哉は白樺派ながら、自然主義の影響を受け、文章は小説文体の理想と見なされている。芥川龍之介、小林多喜二らは
直哉に心酔し、小林秀雄も評価している。直哉唯一の長編小説『暗夜行路』(1937年)は近代日本文学の代表作に挙げられ、
大岡昇平も近代文学の最高峰であると讃えている。昭和24年(1949)親交あった谷崎潤一郎と共に文化勲章を受章した。
武者小路実篤、細川護立、柳宗悦、梅原龍三郎、安倍能成、廣津和郎、安井曽太郎、谷川徹三らの文化人とも交流。
晩年は東京渋谷常磐松に居を移し、昭和46年(1971)に88歳で他界した。旧居は奈良学園が所有。



奈良市高畑にて(11月) 志賀直哉旧居 表門
クリックで玄関部の写真(ネット志賀直哉旧居より)が出ます

 
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 表門から玄関へ 中庭から見る一階茶室と二階客間 
クリックで拡大

 
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 一階書斎1と北庭 クリックで拡大

 
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 二階客間と書斎2 クリックで拡大

 
志賀直哉旧居にて(11月) 二階客間から見た北庭と春日大社方面 クリックで拡大

  
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 中庭と一階茶室 二階書斎2 奈良学園説明板  クリックで拡大

  
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 茶室から見る中庭と直哉の居間 クリックで拡大

 
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 一階食堂とサンルーム 
クリックで拡大

  
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 南庭  右写真は一階サンルーム・夫人部屋・子供部屋 クリックで拡大

 
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 夫人の部屋 子供部屋    
クリックで拡大

 
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 南庭から北庭へ  クリックで拡大

  
奈良市高畑志賀直哉旧居にて(11月) 左写真路地の右が旧居 中央は若い直哉 
右写真は旧居間取り図 クリックで拡大

  
奈良市高畑にて(11月) 登録有形文化財 第29-0037〜0038号 中村家住宅(旧足立家住宅)主屋及び塀
志賀直哉旧宅隣の中村家住宅(旧足立家住宅)は、洋画家・足立源一郎の自邸として、大正8年(1923)に建築された。
右端の地図は奈良市高畑に住んだり集まったりした文人・画家の参考所在図である。  
クリックで拡大


  
奈良市
頭 塔

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奈良市高畑町の、1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造をしている土製の塔。奈良時代の建造で、
東西南北の各面に石仏を配置する。大正11年(1922)国の史跡に指定。 『東大寺要録』によれば、奈良時代の僧、
実忠によって造営され、「土塔」(どとう)と表記されている。また、遣唐使に随行して唐で法相を学んだ玄ム僧正
の首塚であるという伝承もある。この頭塔に似た遺址として、堺市大野寺の「土塔」がある。
参考ネットより)

 
奈良市高畑にて(11月) 史蹟頭塔(東面:ホテルウェルネス飛鳥路より撮影) 
クリックで拡大

 
奈良市高畑の史蹟頭塔(写真左はネット1より、写真右はネット2より転載しました)


奈良市高畑の史蹟頭塔(写真はネット3より転載)クリックで拡大
「浮彫如来及両脇侍二侍者像」(東面第一段)(重文)


滋賀
滋賀の史跡・遺跡
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大津市
穴太衆積み石垣の遺構

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今も生きている日本の誇るべき伝統技術
大津市在住の粟田純徳氏が第15代穴太衆頭として活躍


 
 坂本にて(10月) 日吉大社参道の穴太衆積の石垣

 
 坂本にて(10月) 坂本駅へ伸びる穴太衆積みの街道
  穴太衆積の石垣説明文 説明板クリックで拡大

 
大津市坂本にて(10月) 滋賀院門跡御成門前参道 穴太衆積に五本線の入った白い塀


 
大津市坂本にて(10月) 滋賀院門跡の穴太衆積 
説明板クリックで拡大


福井県丸岡城横「一筆啓上 日本一短い手紙の館」にて作業中の穴太衆
JAF Mate 2015 8.9 より転載
 
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彦根城と第15代穴太衆頭 粟田純徳氏 
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JAF Mate 2015 8.9 より転載 立木義浩撮影談


彦根城の石垣を積んだ穴太衆 
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JAF Mate 2015 8.9 pp61 記事

 
産経新聞夕刊「関西の力」穴太積の穴太衆 連載記事 左はH28.11.01〜右はH28.11.02の1面 クリックで拡大
織田信長に認められた大津の石積み技術が熊本城修復につながる。


産経新聞夕刊「関西の力」穴太積の穴太衆
連載記事 H28.11.05の1面 クリックで拡大

産経新聞夕刊「関西の力」穴太積の穴太衆
連載記事 H28.11.07の1面 
クリックで拡大


  
大津市
史跡石山貝塚

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大津市石山寺にて(11月) 石山貝塚のモニュメントと説明板  クリックで拡大

 大津市石山寺にて(12月) 
 市指定史跡石山貝塚の碑

 瀬田シジミやタニシなど、
 2mの貝層の淡水貝塚

 石山観光会館に
 はぎとった貝層を展示




  
草津市
草津宿本陣

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東海道五十三次の52番目の宿場で、中山道と合流する。この草津宿本陣は滋賀県草津市にあり、
本陣は国の史跡に指定されている。東海道の江戸方からは、草津川を越えて、東横町・西横町と続き、
中山道との合流する。かつては参勤交代のおり、浅野内匠頭が泊まった宿と言われ、
新選組の土方歳蔵の名も出てくる、参勤交代時の重要な宿場町であった。



滋賀県草津市にて(10月) JR駅にある草津宿
東海道と中山道の合流点であり、多くの旅籠が軒を並べた
国指定史跡 草津宿本陣 (くさつじゅくほんじん)は近い

 
草津市にて(11月) 草津宿本陣(國指定史蹟)玄関  右写真は旧東海道に面した本陣建物 館内案内図 クリックで拡大

  
草津市にて(11月) 艸津川(くさつかわ)標識とその川の下を往く中山道と街道説明板   
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草津市にて(11月) 艸津川南端の旧道標と街道説明板   クリックで拡大
標識には「右東海道いせみち(伊勢道) 左中仙道美のぢ(美濃路)」とある (街道図参考)


   
草津市にて(11月) 草津宿本陣楽座館の街道図と本陣説明板   クリックで拡大

  
草津市にて(11月) 草津宿本陣の庭 館内案内図本陣説明板参照   クリックで拡大

  
草津市にて(11月) 草津宿本陣の庭 館内案内図本陣説明板参照   
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草津市にて(11月) 草津宿本陣の蔵と湯沸屋形  中央は坪庭 館内案内図本陣説明板参照   
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草津市にて(11月) 草津宿本陣楽座館内部 殿様用湯殿 街道に明治時代の郵便箱の複製(使用可)  クリックで拡大

 
草津市草津宿本陣前街道にて(11月) 草津を詠んだ歌碑
堯考法師<1390〜1455> 「
近江路や秋の草つはなのみして
花咲くのべぞ何処ともなき
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大津市
旧南郷洗堰

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大津市にて(2月) 旧南郷洗堰(土木学会選定遺跡として東岸の一部を保存) クリックで説明板


  
近江八幡市
朝鮮通信使 朝鮮人道

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近江八幡にて(11月) 京街道×新町通り 市立資料館 このあたりが朝鮮人道です
右は朝鮮通信使 朝鮮人道(赤線) クリックで拡大


OSAKA
[原風景歴史街道 史跡・遺跡] 中項目・目次
1.原風景  2.歴史街道  3.史跡・遺跡
3.史跡・遺跡  京都 奈良 滋賀 大阪 旧毛馬閘門  蕪村生誕地 佃漁民ゆかりの地 謡曲芦刈ゆかりの地 仁徳天皇陵 大仙茶室 千利休屋敷 
旧堺灯台 石山本願寺 難波宮跡 法円坂遺跡他 中世の大坂 岩崎弥太郎舊邸址 藤原家隆墓 夕陽ヶ丘命名地 真田抜け穴 茶臼山合戦跡 旧陸軍墓地 
大阪国技館跡 垂水雉畷 芭蕉辞世地 蔵屋敷・福澤諭吉誕生地 懐徳堂跡 兼葭堂跡 適塾跡 淀屋小路 大阪銅座跡 為替会社跡 堂島米市場跡 
渡辺津
 平野杭全環濠 茨田堤 江坂郷碑 三国の渡し 半町本陣跡 土師窯跡 天保山跡 高槻第4聯隊跡 池田呉服座 お染久松墓 行基生誕地 
住吉神宮寺跡 継体天皇陵 
兵庫 清盛塚 田能遺跡 多田銀銅山跡 生野銀山 近松墓 義経隠家跡 醤油発祥地 殿下野立所跡  
岡山  池田氏墓所  
福井
 三方鳥浜村遺跡 朝倉氏遺跡 高知 龍馬生誕地 平家の宮跡 


遺跡
大阪の史跡・遺跡
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けま

大阪市北区
旧毛馬閘門
旧毛馬洗堰
大阪城残念石 旧毛馬基標
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大阪市北区長柄にて(4月) 旧毛馬閘門設計建設者 淀川を見る沖野忠雄氏の像と新淀川開削の淀川改修紀功碑 
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大阪市北区長柄にて(H28年4月) 旧毛馬閘門に掛かる眼鏡橋(修復保存) クリックで拡大

 
大阪市北区長柄にて(4月) 旧毛馬閘門(埋立して修復保存) クリックで拡大

  
大阪市北区長柄にて(H28年4月) 旧毛馬閘門(埋立して修復保存) クリックで拡大


 
大阪市北区長柄にて(4月) 旧毛馬洗堰(埋立して修復保存) クリックで拡大


大阪市北区長柄にて(4月) 旧毛馬洗堰説明板 クリックで拡大


 
大阪市北区長柄にて(4月) 残念石 大坂城を再建する石(刻印あり)の一部 
 写真クリックで説明文
家康が大坂城を再建するに際して伏見城から運んだ石が、一部毛馬あたりで落下し、明治の淀川工事で拾い上げられたもの。

 
大阪市北区淀川河川公園長柄地区にて(4月) 旧毛馬基標 
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大阪港や淀川の改修の際の設計の基準になる、水面の高さの基標。



平成28年11月17日産経新聞 淀川を行く 毛馬の風景より 
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オランダ人技師デ・レーケの構想を内務省土木技師沖野忠雄が実現した。
デ・レーケは天保山築港の浚渫にも指導した



  
大阪市都島区
与謝蕪村生誕地
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蕪村宅跡へ

 
大阪市都島区毛馬にて(3月) 蕪村生誕地碑  クリックで拡大
蕪村<生年不詳〜1783>句碑 
春風や堤長うして家遠し

 
大阪市都島区にて(3月) 蕪村生誕地碑(左写真の右端の植え込み) クリックで拡大
都島区蕪村公園内、大阪星光学園校内、妙国寺境内などに蕪村の句碑が多い
1783年永眠。享年68歳。辞世句
「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」
蕪村の墓は、芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)の境内にある

  
大阪市都島区毛馬にて(4月) 蕪村生誕地碑のある植込み 淀川槐秋100年記念事業としての句碑建設碑 クリックで拡大
右端写真は(3月)蕪村礼賛碑(礼賛文その1その2

 
大阪市都島区蕪村公園にて(3月) 蕪村生誕地碑(蕪村公園内にある古い生誕地碑) クリックで拡大
大阪市北区長柄東3丁目「国土交通省淀川工事事務所」の敷地から蕪村公園に移された生誕地碑。
この碑は元は旧毛馬洗堰堤防下に建てられていたが、1953年(昭和28年)地元有志により転々としてここに設置された。
碑の表(写真左)には『俳聖 蕪村顕彰之碑』の文字と「春風や 堤長ふして 家遠し」の句が刻まれている。
裏面(写真右)には蕪村の生家は『此ノ所在地ヨリ北方約三百米突地点ニ在リシ‥‥』とある。説明文



平成28年12月15日 産経新聞記事より 淀川を行く「毛馬の風景」 クリックで拡大


  
大阪市西淀川区
佃漁民ゆかりの地
謡曲芦刈ゆかりの地
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大阪市西淀川区佃町田蓑神社にて(1月) 佃漁民ゆかりの地 謡曲芦刈ゆかりの地 
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佃漁民ゆかりの地>天正年間、徳川家康公がこの地から多田神社(川西市)に参詣の時、田蓑嶋漁夫が、神崎川の神渡船を勤めた縁
により、漁民等に「全国どこで漁をしても良し、税はいらない」という褒美をいただいた。家康公が江戸へ下降の折に佃の人等がお供し、
鉄炮洲(現在佃嶋)の地に大阪の佃の名を付けたのが、東京都中央区佃である。
この地の住吉神社は田蓑神社から勧請したものである。

謡曲芦刈ゆかりの地>昔、難波の夫婦が生活苦のため、夫と妻は別々に働きに出ることになり、夫は芦を売り、妻は都へ奉公に出た。
妻は優雅に暮らす身分になって、別れ別れの夫に路上で巡り会ったが、夫は貧しい身を恥じて隠れたりしたが、やがて、元通り夫婦仲良く
暮らした
という「大和物語」より作られた謡曲であると田蓑に伝わる。その昔、淀川支流の佃・田蓑周辺は芦が群生していた所であった。


 
西淀川区佃にて(1月) 佃漁民ゆかりの地碑のある田蓑神社
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平成28年1月21日 産経新聞より「佃魚民のゆかりの地」の記事  クリックで拡大


  
堺市
仁徳天皇陵ほか
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堺市大仙公園にて(5月) 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵 
正面

  
堺市大仙公園にて(5月) 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵  
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堺市大仙公園にて(5月) 仁徳天皇陵 外堀南東部 外堀 中堀  写真クリックで拡大

  
堺市大仙公園にて(5月) 仁徳天皇陵 外堀 右は仁徳陵模型  
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堺市大仙公園にて(5月) 仁徳天皇陵説明板 右は仁徳陵パンフレット クリックで拡大

   
堺市大仙公園にて(5月) 仁徳天皇陵パンフレット 右はH27.10.9産経新聞 
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堺市大仙公園にて(4月) 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵  
写真クリックで拡大

  
堺市大仙公園にて(4月) 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵と仁徳天皇御歌
高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはいにけり
 写真右は百舌鳥耳原由来の像(仁徳天皇と伝説の鹿と百舌鳥の塑像と解説板)   写真クリックで拡大

  
堺市大仙公園にて(4月) 大仙公園内にある「竜佐山古墳」 
右は(5月)公園南部の「旗塚古墳」 クリックで拡大

  
堺市大仙公園にて(4月) キリシタン大名小西行長公のゆかりの松 右地図は旗塚古墳の位置を示す クリックで拡大
右地図には都市緑化センター、堺市博物館、黄梅庵の位置も示している。

  
堺市大仙公園にて(4月) 鎮魂と平和を願う紫雲石とその説明碑(左) クリックで拡大
写真右は いたすけ古墳より出土した衝角付冑型埴輪 (複製)

 
堺市大仙公園黄梅庵前にて(5月) 千早赤阪村旧浄土寺九重塔(重文)
明治の廃仏毀釈により廃寺となった浄土寺から移設された 
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堺市大仙公園
黄梅庵、伸庵
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堺市の茶人で、豪商今井宗久所領の茶室が復元保存されている

  
堺市大仙公園にて(5月) 茶室黄梅庵と伸庵の共通の門 左は説明板 右は案内板 
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堺市大仙公園にて(5月) 橿原市今井町に今井宗久所領の茶室黄梅庵 クリックで拡大
電力の鬼松永安左衛門が今井町豊田家から小田原へ移し、堺に寄贈され移築されたもの

  
堺市大仙公園にて(5月) 今井宗久ゆかりの茶室黄梅庵と井戸 
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堺市大仙公園にて(5月) 伸庵 クリックで拡大 松永翁と親交深かった、数寄屋普請の
名匠 仰木魯堂が東京芝公園に立てた茶室を福助鰍ェ市に寄贈し移築したもの


  
堺市
千利休屋敷跡

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千利休は大永2年(1522)、堺市の豪商魚屋(ととや)に生まれ、17歳から茶湯を北向道陳、後に武野紹鴎に
師事しわび茶を大成。信長と秀吉に仕え、天下一の茶匠として権勢を振るったが、秀吉の怒りにふれ自刃した。
屋敷跡には椿の井戸が残され、井戸屋形は利休自刃にまつわる大徳寺山門の古い部材が用いられている。

   
堺市堺区にて(1月) 千利休屋敷跡 椿の井戸 クリックで拡大


堺市堺区にて(1月) 千利休屋敷跡 椿の井戸


 千利休屋敷跡 椿の井戸(ネット動画より転載) 
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堺市堺区にて(1月) 千利休屋敷跡解説板 クリックで拡大


  
堺市
旧堺灯台

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日本最古の木造洋式灯台として国の指定史跡

旧堺港南波止場に明治10年(1877)、堺の人々の寄付により高さ11.3mの六角錘形の木造洋式灯台が築造され、
堺港に出入りする船の航海の安全を守ってきたが、周辺の埋め立てが進んだ昭和43年(1968)にその役割を終えた。
今は堺のシンボルの一つとして保存され、日本最古の木造洋式灯台として国の指定史跡になっている。


  
堺市大浜公園にて(4月) 旧堺灯台 左写真は東面 右写真は南面  
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堺市大浜公園にて(4月) 旧堺灯台 右端の写真は伊東静雄の詩  クリックで拡


堺市大浜公園にて(4月) 日本ノボパン工業の協力により、旧堺港の賑わいを描いたもの。 
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堺市大浜公園にて(4月) 旧堺灯台 説明板 
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大阪城
石山本願寺跡

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大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 本願寺第11世
織田信長と10年間戦った石山本願寺第11代顕如<1543〜1592>像

 
大阪城にて(11月) 逢阪石山本願寺跡 右は第8代蓮如上人袈裟懸けの松説明板  
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大阪城にて(11月) 石山本願寺跡 蓮如上人袈裟懸けの松(根が残っている) 石山本願寺説明碑  
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場所は大阪城玉造口入ってすぐの所  このあたり後に、江戸時代の大坂城代を補佐する大名屋敷跡があった


  
法円坂
難波宮跡

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大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 難波宮跡 
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大阪歴博物館とNHK大阪放送局の南東に位置する

  
大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 前期難波宮から後期難波宮へ  
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大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 難波宮跡で出土した瓦  クリックで拡大

 
大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 難波宮跡で出土した瓦  クリックで拡大

  
大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 難波宮跡で出土した鴟尾 右端写真は前期難波宮の頃の木簡や土器  クリックで拡大


 
田辺福麻呂(たなべのさきまろ) 万葉集 巻6-1063「あり通ふ 難波(なには)の宮は 海近み
海人娘子(あまをとめ)らが 乗れる舟見ゆ」 写真右は宮中復元図 クリックで拡大

  
大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 難波宮跡発掘状況模型 クリックで拡大

 
大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 左は緑の一里塚
日本最古1400年前の官道 竹内街道の出発点説明板 クリックで拡大


法円坂
法円坂
法円坂遺跡
森ノ宮 細工谷 長原遺跡
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大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 歴史博物館法円坂遺跡
法円坂倉庫群と難波堀江 クリックで拡大


大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 法円坂倉庫群と難波堀江説明板 クリックで拡大


大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 法円坂遺跡
古墳時代の法円坂高床式建物(復元) クリックで拡大

 
大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 船形埴輪 大阪市平野区の長原遺跡より出土  
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大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 左写真は森ノ宮遺跡の縄文土器(左)と弥生式土器(右)
右写真は天王寺区細工谷遺跡墨書土器(字の書かれた土器)


  
大阪市
中世の大坂

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大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 16世紀後半の大阪(手前の渡辺津から熊野街道、竹内街道へ)
大坂という地名は渡辺津から上町台地にのぼる坂を意味したと思われる。 
左の鳥瞰絵図はクリックで拡大

  
大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 船場の町並み
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大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月)  大阪三郷(北、南、天満) クリックで拡大

  
大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 中世都市の町並み模型と大阪三郷の南界隈 クリックで拡大

  
大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 御座船地車(ござぶねだんじり) クリックで拡大
昭和30年頃まで住吉大社の祭りで曳かれた。

  
大阪市大阪歴史博物館にて(8月) 道頓堀各町の土地台帳 右は豊臣道頓堀開削300年記念「保井道頓・保井道卜記功碑」(1914年)
豊臣秀吉から大坂城の外壕を掘鑿した功労に対して、城南の地を拝領した安井道頓は、秀吉から城南の開発すなわち河川の
堀鑿許可を受け、私財を投じて水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した。道頓は大阪夏の陣で大阪城で討ち死にしたが、
道頓堀は従兄弟の安井道卜らにより完成した。 2015年には道頓堀開削400年記念行事がある。 
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大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 左写真は浪華曽根崎図屏風 右写真は文楽人形 
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法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 新綿番船・新酒番船
江戸時代、上方から江戸へ新綿ほか・新酒を送るための廻船。


  
西区北堀江
岩崎弥太郎舊邸址

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大阪長堀川鰹座橋あたりには、土佐藩大阪蔵屋敷があった。明治になって、 岩崎彌太郎がこの蔵屋敷一体
を山内家から取得し、三菱商会(元九十九商会)を営み、山内家の借財を代償した。岩崎家舊邸も藩の土地内
の今の土佐稲荷神社の東側付近にあったが、その部分は大阪市に譲渡された。そこに市は女学校を建設したが、
そこに岩崎家舊邸址碑(写真)を置いた。後に女学校跡地に公団住宅が建設された時、舊邸址碑は現在の
土佐稲荷神社に移された。公団住宅は司馬遼太郎が住んだという11階の住宅で、今も残っている。土佐
稲荷神社は土佐藩邸、蔵屋敷の守護神であったが、今は三菱の鎮守で神主は三菱社員である。
                           土佐稲荷神社のページへ
 
大阪市西区土佐稲荷神社にて(1月) 岩崎家舊邸址の碑 
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天王寺区夕陽丘
藤原家隆の墓

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新古今和歌集の選者の一人の従二位藤原家隆(1158〜1237)卿の墓。
藤原家隆は藤原定家(1162〜1241)と並ぶ鎌倉時代の歌人。嘉禎2年(1236)この地に小庵(夕陽庵)を設け
「契りあれば難波の里に宿り来て 波の入り日を拝みつるかな」の和歌を残してこの世を去った。五輪の墓碑が
残され、夕陽丘の地名の由来となった。家隆は西に沈みゆく太陽に向かって念仏を称え、極楽往生を
願う日想観(観無量寿経に説かれている念仏修業の一つ)をもっていた。


 
大阪市天王寺区にて(5月) 藤原家隆の墓

 
大阪市天王寺区にて(5月) 藤原家隆墓碑と肖像画


大阪市天王寺区夕陽丘にて(5月)
藤原家隆の歌碑

藤原家隆<1158-1237>
契りあれば
難波の里に宿りきて
浪の入り日を
拝みけるかな

(古今著聞集)
夕陽丘ストリート


  
天王寺区夕陽丘
伊達家・陸奥家・小松帯刀の墓跡
夕陽丘命名の地
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大阪市天王寺区夕陽丘にて(5月) 
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小松帯刀墓所跡、夕陽丘命名の地碑

真宗大谷派 百済山
称念寺駒札 参考

稱念寺は近松の「庚申心中」の男性を葬った寺である。先の空襲で久宝寺町にあった寺は焼失、
残った本尊をもって、夕陽丘に再建されたが、門徒の船場商人の多くは亡くなり、また近江に帰った。
薩摩藩家老小松帯刀の墓や、藤原家隆の墓、家隆を慕った陸奥宗光の父伊達宗広(千広)がこの
夕陽丘の家隆塚を守り庵を構えたことから陸奥家の墓があるなど
本寺との因縁がある。
駒札

大阪市天王寺区夕陽丘にて(5月) 
伊達千広 自得翁<1802-1877>
(伊達千広は自得。陸奥宗光の実父)
空蝉の殻は何処に朽ちぬとも
我魂やどるかた岡ぞこれ


この歌の元歌と思しき歌が古今集にある
空蝉の殻は木ごとに留むれど
魂の行方を見ぬぞ悲しき

古今集0448
 よみびと知らず参考


大阪市天王寺区にて(5月) 大江神社 夕日岡の碑


  
天王寺区玉造宰相山
真田の抜け穴

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慶長19年(1614)大坂冬の陣、徳川家康は天王寺茶臼山に本陣を置き、20万の大軍で大坂城を包囲した。
豊臣方の武将・真田幸村は大坂城の南方に、堅固な出城「真田丸」を築き、徳川勢を一身に引きつけ撃退した。
その時、幸村が築いたと云う、大阪城に通じる地下道が「真田の抜け穴」で、三光神社境内にその跡が
残っている。大阪市内にはこの「真田の抜け穴」と呼ばれるものが10ヶ所以上ある。

大阪市天王寺区三光神社にて(5月) 眞田幸村像

大阪市天王寺区宰相山公園にて(5月)
三光神社本殿の真田幸村の鎧(模型)


三光神社にて(5月) 抜け穴跡と眞田幸村像


大阪市天王寺区宰相山公園三光神社にて(5月)
大阪城に通じるという真田の抜穴跡


  
天王寺区茶臼山
真田合戦跡

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天王寺公園にて(1月) 史跡茶臼山及河底池碑 茶臼山古墳への河底池にかかる和気橋 
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天王寺区天王寺公園にて(1月) 古戦場跡からあべのハルカス 右は6月  クリックで拡大

 
浄土宗一心寺高口恭典住職から天王寺動物公園野原賢一郎事務所長へ「大坂の陣記念碑」贈呈(2014.9.9産経ネットより)
右写真は天王寺公園にて(1月) 大坂の陣・史跡茶臼山記念碑 
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天王寺公園にて(1月) 史跡茶臼山の頂上 クリックで拡大
茶臼山山頂碑設置前の茶臼山山頂

 
天王寺公園にて(6月) 茶臼山頂上に「大阪で2番目に低い山・茶臼山山頂碑」(2017.3.30) クリックで拡大
慶長19年(1614)大坂冬の陣で徳川家康の本陣、慶長20年(1615)夏の陣には真田幸村の本陣として、茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)
があった。茶臼山は「大阪で2番目に低い山・茶臼山山頂碑」が登場。てんのうじ観光ボランティア協議会が山頂を示す三角点マークの
入った山頂碑を新設。 「標高26m」の登頂記念に「登頂証明書」が、一心寺存牟堂にある(1部100円)。

 
天王寺公園茶臼山にて(1月) 大阪夏の陣布陣図 右は茶臼山古戦場跡説明板 クリックで拡大
この茶臼山から近くの安居天満宮にて休息中に真田幸村は越前兵により討ち取られた。

  
平成28年7月14日 産経新聞より 真田幸村ゆかりの地 
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天王寺区宰相山
旧陸軍墓地

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旧真田山陸軍墓地は昔、真田幸村が大坂の陣の時に、徳川の大軍を迎え撃った古戦場跡に
西南戦争、日清、日露戦争から太平洋戦争に至る戦没者将兵を埋葬したり、お骨を預かっている。この墓地の
霊堂(納骨堂)の遺骨は約4万3000余柱、墓標は4800柱と清国とドイツ戦病没者10柱が建立されている


 
大阪市天王寺区宰相山公園にて(5月) 旧真田山陸軍墓地 
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浪速区
大阪国技館跡

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大正8年(1919)大阪国技館が現在のスパーワールド付近に、鉄筋コンクリート・煉瓦造、
建築面積約 2,000平方m、ドーム式で建設された。昭和2年(1927)には東西相撲の合併で
大日本相撲協会が設立され、相撲興行の中心は東京の両国国技館となった。


 
大阪市浪速区新世界南にて(11月) 大阪国技館跡の碑 
クリックで説明板拡大


大阪市浪速区スパワールドにて(10月) 大阪国技館跡 クリックで拡大


  
吹田市垂水
雉子畷・
垂水の滝

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伝説雉子畷(長柄橋にまつわる人柱の伝説)の説明板 雉子畷碑の場所は吹田市立博物館の歴史散歩より
因みに「雉子も鳴かずば射たれまい」の日本の諺 石川県他にこの諺に関する多くの民話がある


  
吹田市垂水にて(1月)(KK氏) 雉畷碑記
クリックで地図と説明板を拡大します) 長柄伝説
雉子畷伝説 「ものいわじ 父は長柄の橋柱 雉も鳴かずば 射られざらまし」

 
吹田市垂水にて(1月)(KK氏)
垂水神社の万葉歌碑
垂水の滝
写真クリックで碑文を
拡大します


この歌碑は「歌碑のページ
にもあります。


  
大阪市中央区
芭蕉翁辞世句碑

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南御堂にて(12月) 松尾芭蕉(1644〜1694)辞世 「旅に病で夢は枯野をかけまはる
芭蕉は元禄7年(1694)秋、伊賀から大阪に着いたが病気になり、10月12日南御堂前の花屋
仁左衛門の屋敷で51歳の生涯を閉じた。句碑は、後に天保の俳人達によって建立。
この句のあとの1句「
清滝や波に散り込む青松葉」が最後の句らしい。


  
蔵屋敷跡地
福沢諭吉生誕地
旧中津藩蔵屋敷・広島蔵屋敷跡

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大阪市堂島にて(11月) 福沢諭吉誕生地の碑


堂島にて(11月) 福沢諭吉誕生地の碑
クリックで拡大

阪市堂島にて(11月)
旧中津藩蔵屋敷の跡の碑

 
大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 広島藩蔵屋敷復元模型 クリックで拡大



  
大阪市中央区
懐徳堂跡

木村蒹葭堂

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大阪市中央区今橋にて(11月) 山片蟠桃らの懐徳堂の跡碑 右は懐徳堂の趣意文 クリックで拡大
  (財)懐徳堂記念会事務局 大阪大学で保存研究される


  
大阪市中央区
木村蒹葭堂

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大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 町人文化の説明図
右は大阪市西区大阪市立図書館にて(3月) 木村蒹葭堂<1736〜1802>説明銅板 
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江戸中期の大坂の文人・木村兼葭堂(通称坪井屋吉右衛門)の屋敷跡である。図書館の敷地自体が史跡である。
兼葭堂は、当時の日本を代表する文化人で、彼の屋敷には文人墨客が訪問し逗留した一大文化サロンであった。
彼の友人には、本居宣長・上田秋成・蕪村・野呂介石など、当時の錚々たる芸術家・学者・文化人がいる。

  
大阪市西区にて(12月) 大阪市立中央図書館横の木村兼葭堂邸跡碑
碑の建立は市制施行七十周年記念 昭和三十五年三月 
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大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 木村 蒹葭堂は、江戸中期の文人、文人画家、本草学者。
大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋・商家の長子。 
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阪市中央区
適塾(重文)
緒方洪庵旧宅

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大阪大学医学部のルーツ

 
大阪市中央区にて(11月) 緒方洪庵の適塾正面(重文)
 適塾(説明板)

 
大阪市中央区にて(11月) 緒方洪庵の適塾西側
 適塾西門

 
大阪市中央区にて(11月)
緒方洪庵の適塾(重文)
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大阪市中央区にて(11月) 適塾東側

中央区適塾にて(11月)
緒方洪庵像
設立関係者の碑

全写真クリックで拡大

右端は平成29年7月22日
産経新聞朝刊より

中央区適塾にて(11月) 緒方洪庵像


  
史跡 淀屋小路

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大阪市中央区淀屋橋南詰にて(11月) 淀屋小路
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大阪大学 微生物研究所跡
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大阪市堂島にて(11月)  大阪大学微生物病研究所跡


  
銅座の跡

愛珠幼稚園(重文)
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大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 左写真は住友銅吹所説明 中央写真は銅を計る分銅
右写真はは愛殊幼稚園(中央区今橋)の横にある銅座の跡碑 
  すべてクリックで拡大


 
大阪市法円坂大阪歴史博物館にて(8月) 我が国銅山所在図と銅座と住友銅吹所の場所 
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大阪市中央区にて(11月) 愛殊幼稚園(重文指定書)クリック拡大


 
大阪市中央区にて(11月) 愛殊幼稚園(重文) 明治31年(1901)竣工の古い現役幼稚園

 
大阪市中央区にて(11月) 愛殊幼稚園(重文)玄関 幼稚園の園児を出迎える父兄


  
大阪通商会社為替会社跡

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     中之島にて(11月) 中央公会堂前        中之島リーガロイヤルホテル前にて(11月) 
大阪通商会社為替会社
跡碑                蔵屋敷跡碑

 
大阪市中之島リーガロイヤルホテル前にて(4月) 明治天皇聖燭碑
大阪紙砂糖製造所址碑 クリックで拡大


大阪市中之島にて(4月) 慈雲尊者生誕地之碑


  
堂島米市場跡

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米国シカゴにある先物取引所の前に、「このデリバティブ取引は
大阪で始まった」との説明板があるという(堺屋太一の講演より)



大阪市北区堂島にて(11月) 堂島米会所
堂島米市場跡記念碑 世界初のデリバティブ取引所


  
渡辺津
八軒家浜

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古代からの要衝で浪速の港の玄関口熊野古道の起点
浄土真宗の元本拠地石山本願寺(現大阪城あたり)に近い
渡辺津(わたなべのつ)は、旧淀川の天満橋付近にあり、瀬戸内海沿岸で最大級の港湾で、窪津(九品津)
とも呼ばれ、ここから、上町台地の北端一帯に街が栄えていた。かつて奈良時代まで難波津や難波京があった場所が、
首都でなくなった後も港湾として機能し続けた。港は兵庫や堺が注目されるが、平安、鎌倉、室町時代の代表的港湾
は渡辺津であった。京からここを経て瀬戸内へ、堺、平野郷、夕陽丘(四天王寺の門前町)、住吉などの自治都市へ
繋がった。また宗教的にも重要な場所で、京から四天王寺、住吉大社、熊野へ詣でる際は淀川からの船をここで
降りていた。渡辺津が熊野古道の起点。石山本願寺(現西本願寺)が築かれ、浄土真宗の本拠があった。


 
大阪市中央区にて(11月) 渡辺津説明碑 八軒家浜船着場地図(ネットより) 
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渡辺津(八軒家浜)は大川が堂島川と土佐堀川に別れる辺りの天神橋と上流の天満橋の間(南岸)にある。


  
平野杭全環濠

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平野郷は堺と並ぶ自治都市で、自衛、灌漑、洪水調整池である環濠で囲んだ「環濠都市」であった。
集落の周囲13箇所に木戸口を設けて各地へ街道が通じる交通の要地でもあった。杭全神社はその中にあって、
この付近で環濠が平野川に通じ、水運の拠点でもあった。平野の地名は、領主の坂上広野麿(坂上田村麻呂の子)
の邸宅があったことから広野と呼ばれ、平野荘と訛ったという。後に藤原氏の荘園、宇治平等院領を経ながら、
坂上家の子孫・平野氏一族が自治を掌握した。大坂の陣で戦火にあうも江戸期には活気ある都邑を維持し、
享保2年(1717)に町人の学校「含翠堂」もあった。(参考資料) 環濠都市は奈良今井町も。


  
大阪市平野区杭全神社にて(1月) 環濠遺跡 右地図には平野川に沿って杭全神社の東側の環濠が見える クリックで拡大


  
茨田堤

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現在の寝屋川市・門真市に残る、五世紀に仁徳天皇による
日本最古の淀川治水工事跡と伝わる茨田堤。



平成28年7月7日 産経新聞より 日本最古の治水工事跡 
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吹田市
春日大社領 榎坂郷

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榎坂郷の碑 吹田市新御堂筋 榎坂駅付近にて、かつて当地は春日大社領であって
垂水西牧榎坂郷と呼ばれた古い荘園であった。
北攝の春日大社の荘園に関わる「今西家」参照
右は垂水西牧榎坂の趣意書の碑(写真TM氏)


  
吹田市
三国の渡し跡

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大阪落語にも登場する
能勢街道、神崎川の三国の渡し跡
写真クリックで読めます
三国橋 
大阪の橋の所在地図
写真は(TM氏)


  
箕面市
西国街道半町本陣跡

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大阪府箕面市にて(11月) 瀬川・半町本陣跡付近      説明板(クリック拡大


  
藤井寺市
土師窯跡

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藤井寺市道明寺天満宮にて(4月)
土師窯跡碑 我が国の陶業発祥の地として建碑された



  
大阪市
天保山跡

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国土地理院の標高4.53mの山。山頂に二等三角点。大阪市や天保山山岳会では日本一低い山としていた。
2014年に地理院が、仙台市日和山を標高3mの山と認定したため、天保山は2番目に低い山となった。天保2年
(1831)から約2年間、淀川の本流であった安治川の天保の大川浚・浚渫工事が行われ、天保山ができた。
葛飾北斎、安藤広重、八嶋岳亭、南粋亭芳雪らの天保山を描いた浮世絵も多い。



天保山公園陶板画 浪花天保山風景 南粋亭芳雪

 
天保山の浮世絵 南粋亭芳雪 右は安藤広重 
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天保山の浮世絵 葛飾北斎 摂州阿治川天保山 右は八嶋岳亭 天保山夕立の図 
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大阪市天保山公園にて(4月) 天保山公園  公園の上にある海抜4.53mの天保山山頂碑 
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 大阪市天保山にて(8月) 大阪港築港功績者 西村捨三氏像 右は西村捨三翁顕彰碑 クイックで拡大
西村捨三氏は後に大阪府知事を務めた。工事に当り毛馬の閘門建設に寄与したオランダ人技師デ・レーケが指導した。


 
産経新聞平成29年2月23日 右は平成29年3月16日より  新聞クリックで拡大

 
天保山にて(8月) 「天保山跡碑 両写真クリックで拡大
右は明治天皇が明治元年、ここ天保山で軍艦を観艦したという記念碑「明治天皇観艦之所碑」


  
高槻市
高槻城跡 工兵第四聨隊跡

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高槻城跡公園にて(3月) 工兵第四聯隊跡碑
 右は高槻城跡碑


  
池田市
池田市呉服座
(明治村で保存)

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大阪府池田市にあった芝居小屋呉服座(重文)が池田市から愛知県明治村へ移築され保存されている。
元々、明治初年池田市戎神社近くに戎座として建築され、後に明治25年に同市西本町に移され、呉服座となった。
地方巡業の歌舞伎、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等が演じられ、尾崎行雄や幸徳秋水ら立憲政治や社会主義
の演説会にも使われ、大衆の娯楽場と同時に、マスコミの役割も果たした。(写真はネット1より転載 ネット2


 
愛知県明治村で保存されている池田の呉服座 右写真はクリックで拡大


  
四条畷市
お染久松の塚

お染久松の墓

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宝永7年(1710)に大坂板屋橋の油問屋で起きた、娘お染と手代久松の心中事件を、近松門左衛門が「女殺油地獄」
として書いた。この悲恋を野崎を舞台に、門左衛門の弟子近松半二が描いた浄瑠璃が「新版歌祭文」(1780年初演)である


 
大東市野崎観音にて(1月) お染久松の塚  右は新版歌祭文 お染久松 野崎村の段碑(
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近松半二作浄瑠璃「新版歌祭文
切っても切れぬ恋衣や 本の白地をなまやかに  お染めは思ひ久松の 跡を慕うて野崎村
  堤伝ひにようようと 桜を目当てに軒のつま そなたは思ひ切る気でも 私や何ぼでもえ切らぬ
余り逢ひたさ懐かしさ 勿體ない事ながら 観音様をかこつけて 逢ひに来たやら南やら


 
大阪府羽曳野市 高野山真言宗青龍山野中寺にて(4月) お染・久松の墓 右は案内札(クリックで拡大
久松の生家は豊中市走井の楠木正成に連なる浄行寺である(記録


  
堺市
行基菩薩誕生塚

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堺市家原寺にて(7月)
行基菩薩誕生塚碑 
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大阪市住吉区
住吉神宮寺跡

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大阪市 住吉大社にて(7月)
住吉神宮寺跡の碑 
 住吉大社内にある「住吉神宮寺跡」は神仏混淆の名残り、
平安時代にはほとんどの神社に神設けられたという。

 この寺は天平宝字2年(758)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)、
荘厳浄土寺と住吉神宮寺が三大寺に数えられていた。

 明治初年、神仏分離令により廃絶した。多くの秘仏も散逸
したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、
移築され現存する。住吉踊りは、ここの僧徒により
広められたものという。(大阪市HPより)

 四国第10番霊場切幡(きりはた)寺のページへ


  
茨木市太田
太田茶臼山古墳
通称継体天皇陵

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大阪府茨木市大田にて(3月) 大田茶臼山古墳 通称継体天皇陵 諸説紛々の天皇陵 前方左が南正面

 
茨木市大田にて(3月) 大田茶臼山古墳 通称継体天皇陵


兵庫の史跡・遺跡
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神戸市
清盛塚・琵琶塚

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兵庫区にある清盛塚と琵琶塚。清盛塚は供養塔であり、清盛の墓は近くの能福寺にある。
琵琶塚は平家物語の琵琶の名手平経正(清盛の甥、敦盛の兄)の墓を移築したもの。参考ネット

  
神戸市兵庫区にて(12月) 清盛塚  右端の清盛像は柳原義達氏(1910〜2004)による制作 
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神戸市兵庫区にて(12月) 清盛塚と琵琶塚  
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神戸市兵庫区にて(12月) 琵琶塚  クリックで拡大


  
尼崎市
田能遺跡

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弥生時代の大集落地
弥生時代(約2300〜1700年以前)全期間に居住していたと思われる遺跡が
昭和40年に発見され、昭和44年に国指定の史跡となった。大阪空港と園田競馬場の間にある。
日東航空徳島空港行きが昭和39年に大阪空港を離陸して田能に墜落した。(みよし観音


 
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館 正面入口と資料館玄関   クリックで拡大

  
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館  クリックで拡大


尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館  方形竪穴住居  クリックで住居部分拡大

  
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館  方形竪穴住居と内部  クリックで拡大

 
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館  円形平地式住居  クリックで拡大


尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館  円形平地式住居  クリックで住居部分拡大

  
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館  円形平地式住居  クリックで拡大

 
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館  円形平地式住居内部  クリックで拡大

 
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡資料館  高床倉庫  クリックで拡大

  
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡顕彰碑  左は表面 右は裏面   クリックだ拡大

  
尼崎市田能にて(5月) 国指定史蹟田能遺跡説明板    クリックだ拡大

 
尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 国指定史蹟 田能資料館 展示品の土器群    
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尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 国指定史蹟 田能資料館 展示品の土器群    クリックだ拡大

 
尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 田能資料館 土器と勾玉・管玉装身具(碧玉・翡翠)  クリックだ拡大

 
尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 田能資料館 いいだこ用蛸壺と木製品  
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尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 田能資料館 織物と金属器  クリックだ拡大


尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 田能遺跡の発掘の様子 
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尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 木蓋土壙墓(第7号墓・第15号墓) 土壙墓(第11号墓) クリックで拡大

  
尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 木棺墓(第6号墓・第8号墓・第13号墓) クリックで拡大

  
尼崎市田能田能遺跡にて(5月) 甕棺墓(第9号墓) 壺棺墓(第10号墓・第12号墓) クリックで拡大


尼崎市田能田能遺跡航空写真(GoogleMapsより) 


  
猪名川町
多田銀銅山跡

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多田銅銀山は東大寺大仏鋳造の銅を寄進し
秀吉を潤おした
北摂一体に及ぶ、古い大鉱山
多田銅山は天平14年(742)大仏用の銅を掘り出した奇妙山神教間歩(一庫ダムの近く)に始まる。豊臣秀吉の財源を
支えた名残が台所間歩や瓢箪間歩の名で残り、埋蔵金伝説を生んだ。鉱脈は猪名川町、川西市、宝塚市、池田市、箕面市、
能勢町、豊能町に及び、2000間歩があった。昭和48年日本鉱業多田鉱業所の閉山で幕を閉じた
。(案内

 
兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 多田銀銅山の精錬所を再現した悠久広場と悠久の館 
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兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 多田銀銅山 悠久の館 クリックで拡大

 
兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 多田銀銅山 悠久の館 クリックで拡大

  
兵庫県猪名川町多田銀銅山悠久の館にて(9月) 銀銅山説明図  クリックで拡大

  
兵庫県猪名川町多田銀銅山悠久広場にて(9月) カラミレンガ作りの精錬所復元  
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兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 青木間歩坑道入口 日本鉱業が昭和29年〜48年まで使用した新坑道 クリックで拡大

  
兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 日本鉱業 青木間歩新坑道  
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兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 青木間歩新坑道  クリックで拡大

  
兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 銀銅山の鎮守 金山彦神社 本殿と参道 
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兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 青木間歩旧坑道口  
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旧坑道と新坑道は地下で交差(説明図) 写真右は、銀銅山の間を流れる野尻川(銀山川)の岩の川底

   
兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 日本鉱業多田鉱山事務所跡と大露頭  クリックで拡大


兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 秀吉ゆかりの台所間歩 
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兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 台所間歩あたりの山道と案内板 クリックで拡大

 
兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 水抜通風穴跡  
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兵庫県猪名川町多田銀銅山にて(9月) 久徳寺跡と山中鹿之助一族の墓(寺や墓の痕跡はない)


  
朝来市
生野銀山

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生野銀山は大同2年(807年)に銀が出たが、本格的な開坑は室町年間の天文11年(1542年)に但馬守護職
山名祐豊が銀石を掘り出した事に始まる。永禄10年(1567年)に日本最大の銀鉱脈が見つかり、その後、織田信長、
豊臣秀吉の直轄を経て、慶長5年(1600年)徳川家康は但馬金銀山奉行を置いた。佐渡金山、石見銀山と並ぶ天領
として徳川幕府の財政を支え、享保元年(1716年)の八代将軍吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)
を産出した。 明治元年(1868年)に日本初の政府直轄鉱山となった。明治政府はフランス人鉱山技師セアン・
フランソワ・コアニエを雇い、10年間で製鉱所の近代化を確立した。明治29年(1896年)に
三菱合資会社に移り、昭和48年(1973年)に閉山した。生野銀山



兵庫県朝来市にて(10月) 生野銀山 正面はフランス様式の坑口
右は旧坑 滝間歩入口 
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兵庫県朝来市にて(10月) フランス様式の生野銀山坑口 金香瀬坑 不動滝の横の旧坑 滝間歩 
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兵庫県朝来市生野銀山にて(10月)  三菱時代の発電機
三菱鉱山経営と社章の由来などの説明 
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兵庫県朝来市生野銀山にて(10月) 坑内の作業風景人形 クリックで拡大

 
兵庫県朝来市生野銀山にて(10月) 坑内の作業風景人形 亜鉛、鉛鉱床  クリックで拡大



  
尼崎市
近松門左衛門墓所

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尼崎市広済寺にて(8月) 近松門左衛門の墓(国史跡) クリックで駒札拡大


尼崎市日蓮宗広済寺にて(8月) 山門  クリックで史跡近松門左衛門墓所標



  
尼崎市
義経弁慶隠家跡

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義経と弁慶が頼朝の追手を逃れて船出前に逗留した家跡碑


尼崎市大物主神社にて(8月)


  
尼崎市
汁醤油発祥地

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平安時代末期に尼崎市大物で醤油が生まれた。戦前は尼崎に大塚、長尾、寺岡、藤井、小坂、井沢、庄司などの
醸造元があった。昔、大塚家から千葉に嫁いだ縁でキッコーマンに醤油醸造技術が渡ったという。その後、伝統的
醸造法を戦後40数年を経て復活し「尼の生揚醤油保存会」で保存している。この碑はその復元記念碑である



尼崎市大物主神社にて(8月) 汁醤油発祥之地碑


  
西宮市門戸厄神・伊丹市下河原
東宮殿下御野立所跡

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明治44年(1911)の西宮市と伊丹市での陸軍対抗演習観戦の御座所跡記念碑。皇太子(大正天皇)が
演習の統監を務められた。
猪名川に掛かる軍行橋の名前は、この大演習のために架けたことに由来する。

 
西宮市門戸厄神にて、右は伊丹市下河原猪名川軍行橋東詰にて(12月) 東宮殿下御野立所


  
岡山の史跡・遺跡

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赤磐市 城山公園
周匝領主(片桐)池田家世代の墓所

岡山藩主池田家の家老
片桐池田家(周匝領2万5,000石)
の歴代墓所である。片桐池田家は維新後男爵に列せられた。

初代池田長政、2代長明、3代長久、4代長喬、5代長處、6代長仍、7代長玄、8代長紀、9代長貞、10代長常、
11代長準、12代長康の墓所 東の塚に2代〜5代、西の塚には6代〜7代、初代、8代、9代は近い別の場所の墓所がある


岡山県赤磐市周匝(すさい)茶臼山にて(1月)
城山公園池田家之墓所碑 クリックで拡大

  
岡山県赤磐市周匝(すさい)茶臼山城山公園にて(1月) 池田家東墓所の2代池田長明の墓 クリックで拡大


岡山県赤磐市周匝城山公園にて(1月) 池田家墓所「空のお塚(上のお塚)」説明板 
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池田家東墓所「東の塚」には2代池田伊賀守長明、3代池田大学長久、4代池田主殿長喬、5代池田大学長處 池田氏墓所-1
池田家西墓所「西の塚」は6代池田近江守長仍(ながより)、7代池田大和守長玄(ちょうげん) 池田氏墓所-2 池田氏墓所-3

 
赤磐市周匝城山公園にて(1月) 3代池田大学長久の墓
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赤磐市周匝城山公園にて(1月) 池田家西墓所「西の塚」6代池田近江守長仍 右は7代池田大和守長玄の墓 
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赤磐市周匝城山公園の
茶臼山城のページへ



  
福井の史跡・遺跡
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鳥浜村遺跡
縄文時代の遺跡

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若狭三方縄文博物館のページへ


  
福井県若狭町にて(11月) 若狭三方縄文博物館 左から鳥浜村遺跡説明 縄文のタイムカプセル
写真右は縄文時代から安定して堆積した堆積物の地層標本(採集したもの) 
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福井県若狭町にて(11月) 若狭三方縄文博物館 左から日本海側の縄文遺跡表 水月湖の年縞説明と新聞記事 
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福井県若狭町にて(11月) 若狭三方縄文博物館 展示物(大鉢類) クリックで拡大


福井県若狭町にて(11月) 若狭三方縄文博物館 エントランス

以下、若狭三方縄文博物館のページでご覧下さい


  
乗谷朝倉氏遺跡

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福井県立一条谷朝倉氏遺跡資料館 入口と内部


福井県にて(10月) 一条谷朝倉氏遺跡 門構え(再現)

 
福井県にて(10月) 一条谷朝倉氏遺跡 橋(再現) 門(再現)

 
福井県一条谷遺跡にて(10月) 武家屋敷跡  屋敷(再現)

 
福井県一条谷遺跡にて(10月) 武家屋敷跡 右は武家屋敷内部(再現)

 
福井県にて(10月) 一条谷朝倉氏遺跡
 右は武家屋敷の通り(再現)


高知の史跡
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高知市
坂本竜馬誕生地
高知県佐川田中光顕宅跡

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高知市内にて 竜馬生誕地の碑 右は高知県佐川にて(4月) 田中光顕伯爵旧宅跡碑


  
高知県横倉山
平家の宮(参考史跡)

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高知県越智横倉山にて 平家の宮 安徳天皇は祖谷を経て土佐越智横倉山へ下関で入水したのは身代わりとか 
屋島で平家の命運を察した阿波の豪族
田口成良によって安徳天皇は助けられという


 
高知県横倉山にて  安徳天皇をかくまったと云う重臣の名簿(墓がある) 
安徳天皇を助けた
田口成良の名もある 名簿板はクリックで読める
安徳天皇 御潜幸物語により、また多くの重臣の墓の存在により安徳天皇が横倉山で生き延びたという


参考インタネット一覧表 *歴史街道 *世界遺産 *原風景1 *原風景2 *原風景3 *日本風景協会 *日本の歴史風土


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