[仏 閣] 中項目・目次            HPのトップ
 1.滋賀・和歌山 2.中国・四国 3.中部・北陸・東日本 4.京都 5.奈良 6.大阪 7.兵庫

4.京都 4-1 市内(東)  4-2 市内(中)  4-2 市内(西) 十輪寺 二尊院 化野念仏寺 祇王寺 滝口寺 檀林寺 常寂光寺 
久遠寺 善峯寺 勝持寺 正法寺 大覚寺 清涼寺 天竜寺 宝厳院 法輪寺 鈴虫寺 地蔵院 浄住寺 嵯峨の寺 神護寺 西明寺  
4-3 京都府下


4-2 京都市内
(西)

十輪
京都市西京区 天台宗
小塩山十輪寺
(なりひら寺)

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業平の晩年の隠棲跡と伝わる
在原朝臣業平の墓所と塩竃のある1200年の古刹
スリランカの釈迦佛像があり、黄色の法衣をまとった僧侶が訪れる
京都の西、小塩山の麓にある十輪寺は、通称“なりひら寺”と呼ばれる古刹。平安前期の歌人で
「伊勢物語」の主人公、また作者といわれる在原業平の墓所がある。
後の延暦10年(791)最澄が再興
して小塩山大原寺と称し、仁寿年間(851〜)千観によって再興された。応仁の乱で焼失したが、
天正年間(1573〜)に再建され、江戸時代には桂昌院の帰依を受けた。本尊は延命地蔵菩薩
創建と御本尊の説明文(本寺院パンフレットより)


京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 高廊下前の庭

 
京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 山門内側と写真右は本堂へのくぐり


京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 本堂 右の高廊下を経て業平堂へ
写真クリックで本堂の説明文(寺院パンフレットより)

 
京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 不迷梵鐘(まよわずのかね)とその鐘楼(クリックで簡単な説明文


京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 山門


京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 鐘楼 クリックで説明板

 
京都洛西小塩山十輪寺にて(1月) 寺院パンフレットより鐘楼と在原業平 クリックで拡大


 
京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 境内


京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 本堂・高廊下前の庭園

 
京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 手水


京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 三方普感の庭

 
京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 三方普感の庭

 
京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 本堂と高廊下   右写真は高廊下内部(向うは本堂)


都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 高廊下(右は本堂) 業平の墓への道より

 
都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 高廊下と天蓋の枝垂れ桜

 
京都洛西十輪寺にて(1月) 参道  写真右は境内の「なりひらもみじ」と樹齢800年の樟 
写真クリックで樟の大木が出ます

 
京都洛西にて(1月) 小塩山十輪寺 在原業平の墓 右は業平の墓付近から眺めた境内



京都洛西十輪寺にて(1月) 政所   写真クリックで説明駒札

  
京都洛西十輪寺にて(1月) 業平朝臣塩竃旧跡    
写真クリックで説明駒札


天台宗
天台宗
小倉山二尊教院華台寺
(二尊院)

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本尊の発遣の釈迦と来迎の阿弥陀の二如来像により。二尊院と呼ばれる。
総門を入った紅葉の馬場の参道は、紅葉の名所である。平安時代初期の承和年中(834-847)、
嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立した。後に、鎌倉時代初期、法然の高弟、湛空により
再興される。応仁の乱で堂塔伽藍が全焼するが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)
に三条西実隆によって再建され。明治以降は天台宗に属している。



京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺総門

 
京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 紅葉が美しい参道

 
京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 紅葉が美しい参道


京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 参道(紅葉の馬場)


京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 本堂


 
京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 九頭竜弁才天堂と梵鐘(しあわせの鐘)


京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 本堂



京都嵯峨にて(11月) 天台宗二尊院 勅使門(唐門内側)

 
京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 勅使門(唐門)

 
京都嵯峨にて(11月) 天台宗二尊院 黒門  右は黒門付近

 
京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 境内

 
京都嵯峨にて(11月) 天台宗小倉山二尊教院華台寺 境内

 
京都嵯峨二尊教院にて(11月) 角倉了以の墓と像 
銅像はクリックで拡大


嵯峨二尊教院にて(11月) 湛空上人廟への石段

湛空上人   

書院庭園


京都嵯峨二尊教院にて(11月) 嵯峨北部を展望


京都嵯峨二尊教院にて(11月) 参道(帰路)(紅葉の馬場)


浄土
浄土宗
華西山東漸院念仏寺
(あだしの念仏寺)

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平安時代から西の化野、東の鳥辺野、北の蓮台野
で知られる、古い京の葬送の地にある。境内には無縁仏を中心に
墓地があり、角倉素庵(了以の子)も祀られている。

約千百年前、弘法大師が五智山如来寺を、化野の地に開創された。その後、法然上人の常念仏道場となり、華西山
東漸院念仏寺と称し浄土宗に属する。「あだし」とははかないとの意で、「化」の字は「生」が化して「死」となり、
この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往来する願いなどを意味している。この地は古来より葬送の地で、永遠の
別離を悲しんだ所である。境内の多くの石仏は、あだしの一帯に葬られた人々のお墓である。
(寺院HP要約)

   
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺本堂(クリックで寺院説明板
写真左の本尊は湛慶作と伝わる阿弥陀如来(
クリックで拡大) 右は華西山の扁額

 
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺愛宕街道からの緑の濃い参道  
クリックで拡大
左の参道入口写真に「あだし野西院の河原 角倉素庵」の案内石碑がある

 
都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺山門  クリックで拡大
右写真は「あだし野西院の河原 角倉素庵」の案内石碑 


都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺西院の河原(北方面から撮影) クリックで一部拡大
何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだしのの山野に散乱埋没していた墓石を、明治中期に地元の人々が集め、
釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀した。賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。

 
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺西院の河原(南方面から撮影) (右写真は西方面から撮影) クリックで如来像付近を拡大

 
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺境内庭園
  クリックで拡大

  
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺境内庭園  
クリックで拡大

 

京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺境内庭園にある内田吐夢地蔵
クリックすると説明板

  
京都市嵯峨野にて(6月) 緑豊かな化野念仏寺境内  
クリックで拡大


京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺境内  クリックで拡大
竹の小径から西院の河原越しに緑に囲まれた境内(納骨堂方面)を展望

  
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺六面体地蔵のある墓地への竹の小径  クリックで拡大

 
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺寺務所と鐘楼 クリックで拡大

  
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺水子地蔵と延命地蔵堂 右は天満宮 
クリックで拡大

 
 
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺仏舎利塔(納骨堂)六面体地蔵と現代の墓地  クリックで拡大

 
京都市嵯峨野にて(6月) 化野念仏寺の参道前を往く愛宕街道(風致地区) この先の愛宕神社に繋がる

京都市嵯峨野にて(6月)
化野念仏寺
寺務所
まえの句碑


秋思深し
菩薩になれぬ仏たち


このHPでは
「秋思」とは「しゅうし」と読み
秋の物寂しい思いをいう
上の句は一字多いが
秋の物悲しさと
化野の無縁仏
を詠んだ名句と考える

作者の一会は
不詳

句碑の写真はクリックで拡大

注)参考 句碑の「秋思」は「私思」と
も読めそうなので、「私思」と読めば
季語がなく俳句ではないとの説もある

俗世間つもりちがい十ヶ条
クリックで拡大

信仰は豆腐になること
クリックで拡大


真言
真言宗大覚寺派
高松山往生院祇王寺

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祇王寺庭園のページへ

平家物語に登場する悲恋の尼寺
平清盛と別れた祇王とその母、妹が出家入寺した
元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院

清盛の寵愛を受けた白拍子祇王が、仏御前の出現による清盛の心変わりにより都を追われ、母と妹とともに
出家、入寺した悲恋の尼寺。明治初年に祇王寺も廃寺となったが、墓と仏像は大覚寺によって保管された。大覚寺
門跡の楠玉諦師が再建を計画し、元京都府知事北垣国道氏が明治28年に嵯峨の別荘を寄付され、現在の
祇王寺の草庵となった。この時、真言宗大覚寺派の尼寺となった。本尊は大日如来である。


 
京都市右京区嵯峨にて(6月) 祇王寺山門と参拝門の寺碑  クリックで内側の写真へ

 
京都市右京区嵯峨にて(6月) 祇王寺参拝門と参道 クリックで拡大


  
京都市嵯峨祇王寺にて(6月) 草庵(寺は明治に廃寺となったが、元京都府知事北垣国道氏の寄贈による) 
クリックで拡大

  
都市右京区嵯峨にて(6月) 祇王寺草庵内部と吉野窓  右はつくばい クリックで吉野窓(外側)がでます


京都市右京区嵯峨祇王寺にて(6月) 草庵にある祇王の像
続いて右に妹祇女 母刀自、仏御前(寺院HPより) クリックで祇王寺HPへ

 
京都市右京区嵯峨祇王寺にて(6月) 草庵とその前の苔むす庭園 
クリックで拡大


京都市右京区嵯峨祇王寺にて(6月) 苔むす庭園

 
京都市右京区嵯峨祇王寺にて(6月) 苔むす庭園 クリックで拡大

 
京都市右京区嵯峨にて(6月) 祇王寺庭園 右は祇王寺境内図(寺院HPより) 
クリックで拡大

 
京都市右京区嵯峨祇王寺にて(6月) 祇王、祇女、刀自の墓と清盛供養塔 
クリックで拡大

  
京都市右京区嵯峨祇王寺にて(6月) 祇王が清盛のもとを去る際に詠んだ歌碑
萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき
写真左は参拝門前の寺標 写真右は寺院説明板 
クリックで拡大

  
京都市右京区嵯峨祇王寺にて(6月) 庭園脇の竹林と庵主の智照尼の説明碑 クリックで拡大
智照尼は瀬戸内寂聴の小説『女徳』のモデルで、1995年(平成7年)に99歳で亡くなった
右端の写真は夏椿  ナツツバキ シャラノキ ツバキ科  ナツツバキ属

  
京都市右京区嵯峨祇王寺にて(6月) 一両、十両、百両、千両、万両の見本展示 クリックで拡大
一両のページへ 十両、百両のページへ千両のページへ万両のページへ




真言
浄土宗
小倉山滝口寺

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高山樗牛の悲恋歴史小説「滝口入道」にまつわる寺院
後醍醐天皇を護り、足利尊氏と戦った新田義貞の墓所がある
元は祇王寺と同じ浄土宗良鎮が創建した往生院の三宝寺
平安末期、御所警護にあたった滝口の武士斉藤時頼と、平清盛の二女徳子(建礼門院)の女官横笛の悲恋物語。
平家物語に描かれ、後に明治時代、高山樗牛によって小説滝口入道として発表された。時頼は横笛との恋を許されず
わずか19歳で、この寺に出家し入山した。横笛は奈良の法華寺で尼になった云々。またこの寺には後醍醐天皇に仕え、
足利尊氏と戦った新田義貞の首塚がある。故佐佐木信綱博士が小説「滝口入道」にちなんで滝口寺と命名した。

 
京都市嵯峨にて(6月) 滝口寺(旧往生院三宝寺)参拝門 
小説「滝口入道」あらすじ

 
京都市嵯峨にて(6月) 滝口寺(旧往生院三宝寺)本堂 右は寺院説明板  
クリックで拡大

  
京都市嵯峨にて(6月) 滝口寺本堂の入道と横笛の像 仏間からの前庭 右は小松堂  クリックで拡大  

   
京都市嵯峨にて(6月) 滝口寺(旧往生院三宝寺)参道(左は往路上り、右は復路下り)  クリックで拡大

 
京都市嵯峨滝口寺にて(6月) 「滝口と横笛の歌問答旧跡三寳寺歌石」の碑
横笛の歌碑(写真中央奥)の写真はネットより転載 
山深み思い入りぬる柴の戸のまことの道にわれをみちびけ
と横笛が滝口入道に会えず、指を切って血で書き、奈良の法華寺に入ったという。

 
京都市嵯峨滝口寺にて(6月) 新田義貞の首塚 左写真は、義貞の妻匂当内侍供養塔 クリックで拡大
義貞の妻匂当内侍が戦いに敗れて三条河原でさらし首になっている義貞の首を滝口寺で祀ったという

 
京都市嵯峨滝口寺にて(6月) 滝口入道(斉藤時頼)と平家一門の供養塔 クリックで拡大

  
京都市嵯峨滝口寺にて(6月) 滝口寺境内 写真中央は清盛の嫡男平重盛(小松内大臣)を祀る小松堂  
クリックで拡大

   
京都市嵯峨滝口寺にて(6月) 滝口寺境内の碑文(詳細不明) クリックで拡大


京都市嵯峨にて(6月) 滝口寺より祇王寺を見る




日蓮
真言宗大覚寺派
松森山檀林寺門跡

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禅伝来本朝最初発祥之遺跡
嵯峨天皇の妃檀林皇后により創建
室町時代に廃絶となり、昭和に再興された

平安初期、嵯峨天皇皇后橘嘉智子(檀林皇后)により創建、開山は唐僧・義空で、盛時には十二坊を数えた。
皇后は僧義空に禅書を学び、これがわが国で禅が唱えられた始めと云う。その後、室町時代に廃絶し、跡地に
天龍寺が建てられた。昭和39年(1964)に現在地に再興された。霊宝館には皇后ゆかりの品をはじめ、
日本・中国の仏教美術の数々が納められている。本尊は珍しい18本の手を持つ准胝観音である。


 
京都市嵯峨にて(6月) 真言宗大覚寺派檀林寺門跡 山門と蓮華精舎の扁額   クリックで拡大

  
京都市嵯峨にて(6月) 真言宗檀林寺門跡 本堂・法寳閣(屋根瓦に菊の御紋章)に続いて左に霊宝館 クリックで拡大

 
 
京都市嵯峨にて(6月) 真言宗大覚寺派檀林寺門跡 「禅伝来本朝最初発祥之遺跡」碑 
クリックで拡大

  
京都市嵯峨にて(6月) 真言宗大覚寺派檀林寺門跡 境内の様子 クリックで拡大

  
京都市嵯峨真言宗檀林寺門跡にて(6月) 森青蛙の生息する瓢箪池  
クリックで拡大

  
京都市嵯峨真言宗檀林寺門跡にて(6月) 参道および境内  クリックで拡大

 
京都市嵯峨真言宗檀林寺門跡にて(6月) 八角灯篭と櫓形灯篭  クリックで拡大


京都市嵯峨檀林寺にて(6月) 頌徳碑  
クリックで拡大
檀林寺にはいろいろな批判記事が多い 記事1 記事2 記事3


日蓮
日蓮宗
小倉山常寂光寺

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 京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 山門


京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 仁王門


 
京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 仁王門 (内側より)

 
 京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 仁王門(紅葉直前の別の日) 仁王写真はクリックで拡大

 
京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 鐘楼

 
  京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 鐘楼  
クリックで妙見縁起拡大

 
 京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 妙見大菩薩 能勢妙見御分体 能勢妙見と同じく鳥居がある
写真クリックで説明板拡大


京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 本堂


 京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 本堂


京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 多宝塔から嵯峨野を展望

 
 京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 庫裡と参道


京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 参道

 
京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 庭園

 
京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 庭園

 
京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 庭園


京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 境内

 
京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 あずま屋
 右は常寂光寺内舟小屋 市民ギャラリー「すみの倉」休憩所 

 
嵯峨野にて(11月) 常寂光寺  開山堂


 
嵯峨野にて(11月) 常寂光寺参道  右は謌僊祠(歌仙祠)


常寂光寺多宝塔(重文)         


京都市嵯峨にて(11月)

 常寂光寺多宝塔(重文)


京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺多宝塔(重文)


京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺多宝塔(重文)


 京都市嵯峨にて(11月) 常寂光寺 妙見大菩薩の前から嵯峨野を展望


嵯峨にて(11月) 常寂光寺の山荘「時雨亭跡」碑
この山荘で藤原定家が小倉百人一首を編んだ



顕本
顕本法華宗
妙祐久遠寺

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京都市嵯峨二尊院付近にて(11月) 顕本法華宗妙祐久遠寺


京都市嵯峨二尊院付近にて(11月)
顕本法華宗妙祐久遠寺



京都市西京区
天台宗系
善峰観音宗

西山善峯寺

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西山宮門跡 西国霊場第20番札所
江戸時代の善峯寺縁起絵巻によれば、長元2年(1029)、源信の弟子源算が創建し、
長元7年(1034)に後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期に後鳥羽上皇
直筆の寺額によって寺号が善峯寺となった。青蓮院から多くの法親王が入山し西山門跡
と呼ばれた。応仁の乱で伽藍が消失したが、江戸時代に五代将軍綱吉の生母
桂昌院によって再興
された。寺内に桂昌院廟がある。



京都市西京区にて(10月) 西国二十番札所善峰寺山門

  
 京都市善峰寺にて(10月) 東門 中央写真は山門(観音堂より) 右は 神経痛腰痛祈願所碑


 
 京都市善峰寺にて(10月) 遊龍の松と護摩堂


 
 京都市善峰寺にて(10月) 開山堂後面 右写真は正面(前は深い崖になっている)

 
 京都市善峰寺にて(10月) 山門から観音堂 右は観音堂(本堂)

 
 京都市善峰寺にて(10月) 十三仏堂 右写真は 幸福地蔵

 
 京都市善峰寺にて(10月) 桂昌院廟 右は北門

 
京都市善峰寺にて(10月) 桂昌院<1627〜1705> 「たらちをの 願をこめし寺なれば 我も忘れじ なむやくし佛
右は同じく桂昌院 春は花 秋はもみじの むすび木はこの世のいやわせ めでたかりけり

 
京都市善峰寺にて(10月) 遊龍の松の前 経堂
  右は多宝塔

 
 京都市善峰寺にて(10月) 釈迦堂 右は釈迦如来像

 
 京都市善峰寺にて(10月) 奥の院 薬師堂

  
 京都市善峰寺にて(10月) けいしょう殿 薬師堂(裏) 十三の塔


 京都市善峰寺にて(10月) 青蓮の滝 

京都市善峰寺にて(10月) 稲荷社
 
 京都市善峰寺にて(10月) 山内参道 

 
 京都市善峰寺にて(10月) 阿弥陀堂
 右は山内参道

 
 京都市善峰寺にて(10月) 本坊 本坊庭園

 
京都市善峰寺にて(10月) 奥の院から京都市南部  右は文殊堂


京都市西京区 
天台宗
小塩山大原院勝持寺

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西行法師が出家剃髪した寺
西行桜の花の寺で知られる1300年の古刹

白鳳年間(672〜)役行者の創建と伝えられる。その後延暦10年(791)最澄が再興して
小塩山大原寺と称し、仁寿年間(851〜)千観によって再興された。応仁の乱で焼失したが、
天正年間(1573〜)に再建され、江戸時代には桂昌院の帰依を受けた。



京都市西京区にて(6月) 天台宗勝持寺 南門 
クリックで秋(11月)の南門

  
京都洛西にて(6月と11月) 勝持寺南門への参道 前方は南門 右を回ると南門 
クリックで拡大

 
京都洛西にて(11月) 勝持寺 阿弥陀堂(本堂) 本尊は薬師如来(重文) 右はびんずる尊者 
クリックで拡大

 
京都洛西にて(6月) 勝持寺 阿弥陀堂(本堂) 本尊は薬師如来(重文) 本堂奥の右に宝物館

 
京都洛西にて(6月) 勝持寺2 仁王門から南門への参道


京都洛西にて(6月) 勝持寺 仁王門 応仁の乱で戦火を免れた寺最古の建造物
仁王尊像(金剛力士像・重文)は瑠璃光殿(宝物館)にて保管されている

  
京都洛西にて(6月) 勝持寺2 仁王門参道(いずれも往き方向)  右は寺名碑

 
京都洛西にて(6月) 勝持寺 仁王門(内側) 右は(11月)仁王門(内側)と参道(クリックで11月の仁王門

 
京都洛西にて(6月と11月) 勝持寺 不動堂 
クリックで秋の不動堂を拡大

 
京都洛西にて(6月と11月) 勝持寺2 不動堂 
右はクリックで拡大

 
京都洛西勝持寺にて(11月) 不動堂前 クリックで拡大

  
京都洛西勝持寺にて(6月と11月) 瑠璃光殿(宝物館)(仁王門の仁王2体もを保管) 
秋はクリックで拡大

 
京都洛西にて(11月) 勝持寺 鐘楼堂  
左はクリックで拡大 右は(6月)新緑のころ

 
京都洛西にて(6月と11月) 勝持寺 南門(内側) 右は数年後の11月(敷石が変わっている) 右写真クリックで拡大

  
京都洛西勝持寺にて(6月と11月) 鐘(本堂横)と書院 右は書院から本堂への門(11月) 右写真クリックで拡大

 
京都洛西勝持寺にて(11月) 書院から本堂前庭へ クリックで拡大

 
京都洛西にて(6月) 勝持寺2 西行法師の出家剃髪に関わるという「鏡石」 この横に「瀬和井の泉」があったという
写真クリックで(11月)の秋の「鏡石」

 
京都洛西にて(11月) 勝持寺 不動堂の左下の魚藍観音(魚関係者の信仰を集める) 
クリックで拡大

 
京都洛西にて(6月) 勝持寺 境内の様子

 
京都洛西勝持寺にて(6月と11月)  瑠璃光殿前から阿弥陀堂前の境内の様子 
右はクリックで拡大

 
京都洛西勝持寺にて(11月と6月)  瑠璃光殿前から書院 左はクリックで拡大 

 
京都洛西勝持寺にて(6月) 書院前庭園(数年前には十三の石塔がなかった) 
右はクリックで拡大

  
京都洛西勝持寺にて(11月と6月) 境内 瀬和井の泉附近 
クリックで拡大 右は新緑の(6月)

   
京都洛西にて(11月) 秋の勝持寺境内風景 クリックで拡大

 
京都洛西にて(6月) 勝持寺2 庭園

  
京都洛西にて(6月と11月) 勝持寺 庭園の西行桜(三代目・この寺が花の寺と呼ばれる所以) クリックで拡大

 
京都洛西勝持寺にて(11月)  庭園の西行桜横の石塔 
クリックで拡大

  
京都洛西にて(6月) 勝持寺 庭園 勝持寺(花の寺)説明板  境内図  
クリックで説明板と境内図を拡大

   
京都洛西にて(6月と11月) 勝持寺2 歌枕として知られる「冴野の沼」

 
京都洛西勝持寺にて(11月)  庭園の端 桜ヶ丘附近の紅葉 クリックで拡大

  
京都洛西勝持寺にて(11月)  庭園の端 桜ヶ丘附近の紅葉 
クリックで拡大

  
京都洛西勝持寺にて(11月)  花の寺霊園の紅葉 クリックで拡大

  
京都洛西にて(11月) 勝持寺参道にある勝持寺子院跡(遺跡) クリックで拡大


京都洛西勝持寺にて(11月) 勝持寺から長岡京市を展望 クリックで拡大

 
京都洛西にて(6月) 天台宗仏華林山宝菩提院願徳寺 国宝木造菩薩半跏像がある


京都市西京区
真言宗東寺派 別格本山
法寿山正法寺

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鑑真和上の高弟、最澄、弘法大師と繋がる古刹
奈良唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟、智威大徳が隠世したのが始まりで、天平勝宝年間の創建。
その後延暦年間(782〜)最澄がこの地に寺を建立し、弘仁年間(810〜)弘法大師巡錫され四十二歳の厄除けのため、
聖観音を彫刻された。後に応仁の戦火て焼失し、大阪城落城の元和元年恵雲・微円の 両律師により再興された。



京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺山門
西山に 散るもみぢ葉も 咲く花も さながら法の すがたなりけり

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺山門前参道

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺極楽橋から山門への参道


京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺通用門


京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺本堂

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺本堂  写真右は本尊「三面千手観世音菩薩」(重文)
正法寺のご本尊は顔の両側にまた別の顔(化仏という)があって、三面形式になっている、
珍しい千手観音である。(本尊写真は正法寺HPより)

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺地蔵尊

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山 正法寺春日不動尊 右は多宝塔

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺境内

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺境内

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺境内

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 手水  右は水琴屈

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 大阪鴻池家伝来の「大手水鉢」 右は蹲


京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 池泉回遊庭園  写真クリックで枝垂れ桜が咲きます


京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 池泉回遊庭園


京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 枯山水庭園

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 本堂前庭園

 
京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 本堂前庭園


京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 庭園


京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 枯山水庭園


京都洛西大原野にて(6月) 法寿山正法寺 京都東山を展望

 
京都洛西大原野法寿山正法寺にて(6月) 瑠璃菊 ストケシア キク科 ストケシア属


真言宗
真言宗大覚寺派大本山
嵯峨山大覚寺

旧嵯峨御所大覚寺門跡
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延暦13年(794)の桓武天皇平安京遷都の20年後に即位した嵯峨天皇は、葛野の地を愛され、
后との新居として嵯峨院(大覚寺の前身・嵯峨離宮)を建立された。嵯峨の名は、唐の長安北方の
景勝地、嵯峨山になぞらえたもの。嵯峨天皇は中国の新文化を伝えた弘法大師空海と親交を
深められ、高野山開創の勅許、東寺の下賜と恩寵を与えられた。当時の飢饉に際し、
天皇が書かれた般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられている。



 京都市嵯峨真言宗大覚寺派大本山大覚寺にて(11月) 「心経宝塔」
旧嵯峨御所大覚寺門跡

 
京都嵯峨大覚寺にて(8月) 「大門」  右は京都嵯峨大覚寺にて(11月) 「史跡大覚寺御所址」の碑

 
 京都嵯峨大覚寺にて(8月) 「明智陣屋」と「式台玄関」  「宸殿」前の「嵯峨菊展」

 
 京都嵯峨大覚寺にて(11月) 「中庭」

 
京都嵯峨大覚寺にて(8月) 「御影堂」の正面にある「唐門」  右は唐門横の鐘楼と牛車

 
京都嵯峨大覚寺にて(8月) 唐門横の牛車 右は式台玄関横の「宸殿」に通じる門

 
京都嵯峨大覚寺にて(8月) 「宸殿」前の左近の梅

 
京都嵯峨大覚寺にて(8月) 「御影堂」と「御霊殿」  右は「御霊殿」と「五大堂」

 
 京都嵯峨大覚寺にて(8月) 「宸殿」 右は宸殿に展示の「十二単」


 京都嵯峨大覚寺にて(8月) 「宸殿」襖 狩野山楽筆「牡丹図」 

 
 京都嵯峨大覚寺にて(11月) 「宸殿」(西側) 右写真は「宸殿」(東側)

 
京都嵯峨大覚寺にて(8月) 特別公開中の「秩父宮御殿」  右は同大覚寺にて(11月) 「秩父宮御殿」

 
 京都嵯峨大覚寺にて(11月) 「霊明殿」  右は「霊明殿」前の修行僧

 
京都嵯峨大覚寺にて(11月) 「勅封心経殿」 右は「大沢池」(クリックで説明板

 
 京都嵯峨大覚寺にて(11月) 秋の「大沢池」 写真クリックで大沢池碑

 
京都嵯峨大覚寺にて(11月) 「心経宝塔」前の赤橋 右は「聖天堂」

 
京都嵯峨大覚寺にて(11月) 「心経宝塔」 右は「心経宝塔」前の松下幸之助寄進の頌徳碑

 
京都嵯峨大覚寺にて(11月) 「五社明神」 右は茶席「望雲亭」(
クリックで説明板

 
京都市嵯峨大覚寺の門前にて(11月)  大覚寺唯一の塔頭「覚勝院 覚勝院は嵯峨天皇と弘法大師の出会いのお寺、
毎年11月下旬に大根供養会で「心身の毒が消え、八福に欲する」という
 右写真は「大覚寺学院」

 
 嵯峨大覚寺にて(8月) 正寝殿横の大きな百日紅 サルスベリ ミソハギ科 サルスベリ属
正寝殿は右の大覚寺HPにある境内図のBである。この百日紅は正寝殿の北側、庭湖館の東側にある。 クリックで拡大


浄土宗
浄土宗 嵯峨釈迦堂
五台山清涼寺

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浄土宗法然上人が24歳の時、この寺の釈尊像前に7日間おこもりしたという寺院。仁王門から本堂、
阿弥陀堂、一切経蔵、薬師寺、宝物館、弁天堂、狂言堂、聖徳太子殿、法然上人求道青年像、鐘楼、豊臣秀頼公首塚、
多宝塔など多くの堂塔がある。本堂には「三国伝来の生身のお釈迦さま」(国宝)が祀られている。



京都市嵯峨釈迦堂清涼寺にて(11月) 「仁王門」 クリックで拡大
寺院説明板  境内図

 
嵯峨清涼寺にて(11月) 本堂 右は本堂扁額「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」、黄檗宗万福寺開創の隠元隆gの揮毫
ここは嵯峨天皇の皇子・左大臣源融<822〜895>の別荘・栖霞観(せいかかん)があった「源氏物語」ゆかりの寺
本堂写真クリックで拡大   大扁額写真「栴檀瑞像」クリックで説明ネットへ



嵯峨清涼寺にて(11月) 鐘楼 薬師寺 本堂を含む境内 クリックで拡大

 
 京都市嵯峨釈迦堂清涼寺にて(11月) 「仁王門」 右は「一切経堂」

 
京都市嵯峨五台山五台山清涼寺にて(11月) 「鐘楼」と「薬師寺」 右は「多宝塔」  夫々クリックで拡大

 
京都市嵯峨清涼寺にて(11月) 「一切経堂」  右は「愛宕権現社」

 
 京都市嵯峨清涼寺にて(11月) 「庫裏」  右は「庫裏」前庭

 
 京都市嵯峨清涼寺にて(11月) 「本堂」横を北門へ  右は「弁天堂」

 
京都市嵯峨清涼寺にて(11月) 「阿弥陀堂の瓦」 渡り廊(くぐれば北門に通じる)

 
 京都市嵯峨清涼寺にて(11月) 浄土宗の波阿弥陀仏の碑 碑文「あみだ母みた母みた
右は「庫裏」前庭のツワブキ キク科 ツワブキ属 




H28年12月6日 産経新聞「国史へのまなざし」より
清涼寺・嵯峨釈迦堂の釈迦如来立像(国宝)  
クリックで拡大


世界
世界遺産 臨済宗天竜寺派大本山
霊亀山天竜寺

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天龍寺は足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として後醍醐天皇の菩提を弔うため
暦応2年(1339)に創建された。造営のため尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、造営費用には
足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開し、その利益を
造営費用に充てることを計画し「天龍寺船」が始まった。造営費の捻出に成功して
康永4年(1344)に落慶。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、
この位置づけは以後長く続いた。


京都市嵯峨臨済宗大本山天竜寺にて(8月) 総門 
クリックで拡大  11月の総門へ 
総門内側の瓦模様へ

 
京都市嵯峨臨済宗大本山天竜寺にて(8月)(クリックで拡大) 庫裏までの参道 右は(11月)

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 世界遺産臨済宗大本山天竜寺勅使門

  
京都市嵯峨 世界遺産臨済宗大本山天竜寺にて(11月) 総門の前の表示板、寺名碑、童地蔵

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 世界遺産天竜寺 中門 右は(8月)(
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京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 紅葉前の中門 右は中門の赤松

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 大方丈

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 大方丈への参道 右は(8月)  クリックで拡大

 
京都嵯峨天竜寺にて(8月) 天井に龍の法堂(
クリックで11月の法堂  右は(11月)塔頭南芳院


京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 法堂 雲竜図
平成9年(1997)の天龍寺開山夢窓国師650年遠諱記念事業として加山又造画伯<1927〜2004>が描いた

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 大方丈衝立 右写真は前庭はす池

 
嵯峨天竜寺にて(11月)大方丈から法塔への渡り  右は大方丈から多宝殿への渡り

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 八幡宮
 右は塔頭慈済院

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 塔頭弘源寺 
クリックで(8月)の弘源寺山門  

 
京都市嵯峨臨済宗大本山天竜寺にて(8月) 塔頭妙智院  
クリックで拡大

 
京都市嵯峨臨済宗大本山天竜寺にて(8月) 塔頭妙智院  右は塔頭壽寧院  クリックで拡大

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 塔頭三秀院(南より)  右は塔頭三秀院(東より)(クリックで少し接近

  
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 塔頭松厳寺(
クリックで少し接近 右は後醍醐天皇聖廟多寶殿

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 曹源池庭園

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 曹源池庭園

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 曹源池庭園  右は多宝殿への渡り廊下前の庭の大堰川親柱(宝厳院にもあり)

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月)大方丈東庭園  右は多宝殿前庭のしだれ桜

 
京都市嵯峨天竜寺にて(11月) 塔頭慈濟院(木摺福寿大弁財天) 

 
京都市嵯峨臨済宗大本山天竜寺にて(8月) 友雲庵(
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右は嵯峨渡月橋の北東にて(11月) 天竜寺別院霊亀山臨川寺 大堰川(桂川)沿いにある天竜寺開山堂

   
京都市嵯峨天竜寺にて(8月) 各種案内板 
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宝厳院
臨済宗天竜寺塔頭
宝厳院

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宝厳院の庭のページへ

本院は550年前の開山になるが、応仁の乱で消失。後に天龍寺塔頭弘源寺境内に移転、
平成14年に現在地に再興された。回遊式庭園獅子吼の庭は巨石と苔と竹垣が美しい紅葉の名所。

宝厳院は、寛正2年(1461)室町幕府管領細川頼之によって、天龍寺開山夢窓国師の法孫聖仲永光禅師が開いた。
当初、京都市上京区に広大な境内を有した寺院であったが、10年にわたる応仁の乱により、宝厳院も焼失した。その後、
天正年間に豊臣秀吉が再建し、御朱印料三十二石を付与、徳川幕府も明治に至るまで外護した。後に天龍寺塔頭弘源寺境内に移転後、
2002年、現在地(旧妙智院跡)に移転した。回遊式庭園「獅子吼の庭」は、嵐山を借景に室町時代に作られたもの。巨岩と苔や
楓などの豊かな緑が美しい名庭園である。宝厳院書院は元日本郵船重役林民雄氏が大正時代に建てた数寄屋建築の別荘である。
大きな窓からの庭が美しい。本堂は平成20年に完成した。本尊は、十一面観世音菩薩、脇仏に三十三体の観世音菩薩である。
本堂には洋画家田村能里子筆の障壁画「風河燦燦三三自在」が納められている。(寺院HPより)庭の配置図


京都市嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院山門 
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京都嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院前参道  右は宝厳院山門内側(宝厳院垣 クリックで拡大

 
京都嵯峨にて(11月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院山門
  右は宝厳院前参道

 
嵯峨にて(11月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院参道 右クリックで拡大 

 
京都嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院本堂  右は宝厳院書院 クリックで拡大

 
京都嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院獅子吼の庭を回遊する宝厳院垣の参道 
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京都嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院獅子吼の庭 黒石の苦海の向こうに鯉魚石と龍門瀑と三尊石と獣石群 クリックで拡大

 
京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 竹穂垣と宝厳院垣の参道  
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京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 豊丸垣 右は四目垣と龍安寺垣 
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京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 建仁寺垣光悦寺垣 
クリックで拡大 竹垣のページへ

  
京都市嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 永代供養堂・無礙光堂(むげこうどう) クリックで拡大

 
京都嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭宝厳院獅子吼の庭 苦海に浮かぶ舟石、その向こうに鯉魚石と龍門瀑 
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京都嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院獅子吼の庭 苔と羅漢 クリックで拡大


 
京都嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭宝厳院獅子吼の庭 黒石の苦海の向こうに三尊石 
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京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院獅子吼の庭にて(8月) 獅子岩(写真左は右向き、右は左向き)  
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京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院獅子吼の庭にて(8月) 書院前の大岩 右は境内マップ(寺院HPより) クリックで拡大

  
京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院獅子吼の庭にて(8月) 左は書院前の大岩 中央は碧岩 右は本堂脇の石  
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京都市嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 書院から見た獅子吼の庭  
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右は大正時代の板ガラスのため、ガラスの向こうの木の柱や石の欄干が歪んで見える。

 
京都嵯峨にて(8月) 天竜寺塔頭大亀山宝厳院書院  
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京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 書院から見た獅子吼の庭の蹲と鹿威し 右は大堰川親柱 
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大堰川親柱は天竜寺多宝殿への渡り廊下前の庭にもある。

  
京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 無畏庵(写真左から玄関、門、茶室)
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京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 山門脇の茶室・青嶂軒(せいしょうけん) 十三の石塔 
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嵐山羅漢

天龍寺塔頭宝厳院の呼び掛けで、阪神淡路大震災の犠牲者を思い,各地の人々が思いを託して石仏を寄進したものらしい。
およそ七十体がある。 羅漢とは阿羅漢(あらはん)と呼ばれ、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者で釈迦の弟子。
それぞれの役割により十六羅漢や五百羅漢といわれる。 宝厳院境内の獅子吼の庭にも羅漢群がある。

 

京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院にて(8月) 宝厳院山門前参道の嵐山羅漢 クリックで拡大

 
京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院前参道にて(8月) 嵐山羅漢 クリックで拡大
右は同参道嵐山羅漢前のモアイ風の像。大阪府羽曳野市の野中寺にもある。 野中寺のページへ


 
京都嵯峨天竜寺塔頭宝厳院前参道にて(8月) 人間魚雷「海ゆかば」の歌詞板
右写真は歌詞板のある枯山水(ここに人間魚雷回天が置かれていた) 両写真ともクリックで拡大
回天は、旧日本海軍の特攻兵器の一つで、人が乗り組み操縦する、九三式三型魚雷(通称「酸素魚雷」)を改造した十型人間魚雷である。
ここに置かれていた人間魚雷は、呉に移管されたらしい。 十型は実戦に参加することなく終戦を迎えたという。(参考資料
万葉集巻十八「海ゆかば」大伴家持<718頃〜715>  大阪の作曲家信時潔が昭和12年に作曲し、軍歌となった。
海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍大君の辺にこそ死なめのどには死なじ
信時潔「海ゆかば」の曲のルーツは賛美歌との記事を、キリスト教会の森田幸男牧師が平成27年9月5日の産経新聞夕刊に掲載。
海ゆかば」大伴家持作詞 信時潔作曲のYOU TUBE 「海道東征」北原白秋作詞 信時潔作曲のYOU TUBE(聞けます)
信時潔没後50周年記念音楽会が大阪シンフォニーホールにて平成27年11月20日と22日に開催。


真言宗
真言宗五智教団
智福山 虚空蔵法輪寺

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西暦800年頃、弘法大師の高弟道昌僧正が承和年間(834〜847)勅願により
大堰川を修築し橋を架け、法輪寺橋と呼ばれた。亀山上皇(1274〜1287)がこの
橋を見て「くまなき月の渡るに似たり」として渡月橋と命名されたという。
法輪寺は今昔物語、枕草子、平家物語などにも記述されている。


 
京都市嵐山法輪寺にて(11月) 本堂と多宝塔

 
京都市嵐山にて(11月) 法輪寺桂の紅葉

 
京都市嵐山法輪寺にて(11月) 電気・電波の電電宮 

 
京都市嵐山法輪寺にて(11月) 「うるしの碑」 右は法輪寺より天竜寺方面を展望


臨済
臨済宗
妙徳山華厳寺(鈴虫寺)

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華厳寺は鈴虫を四季を通して飼育し、鈴虫寺と呼ばれている。様々な竹を集めた庭園や、
わらじをはき、願い事を一つだけ叶える幸福地蔵、僧侶による参拝者への鈴虫説法で知られ、
京都の寺院でも特に積極的な拝観者招致策を展開し、成功している。



京都市嵐山妙徳山華厳寺にて(11月) 鈴虫寺から京都市を展望

 
京都市嵐山にて(11月) 妙徳山華厳寺 鈴虫寺 山門 境内

 
京都市嵐山にて(11月) 妙徳山華厳寺 鈴虫寺 参道と境内


 
京都市嵐山にて(11月) 妙徳山華厳寺 鈴虫寺庭園



臨済宗
臨済宗
衣笠山地蔵院
(竹の寺)

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細川頼之公建立の孟宗竹の美しい禅寺
一休禅師はこの近くで生まれ、当院で成長

細川護煕元総理の襖絵がある

800年近く前、歌人衣笠内大臣藤原家良が山荘を営まれた処で、貞治6年(1367)に室町幕府管領の細川頼之が
夢窓国師の高弟宗鏡禅師を招請して伽藍を建設した。宗鏡禅師は恩師夢窓国師を開山とし、自らは第二世となった。
その後は北朝系三天皇(崇光・後光厳・後円融)の御願寺に準ぜられ、境内17万平方メートル、末寺26ヵ寺、諸国に
領地54ヶ所を持つ一大禅刹となったが、応仁・文明の乱(1467-1477)に遭い諸堂は悉く灰燼に帰した。しかし
皇室の深恩と細川家の援助等によりほぼ復旧し、明治になって龍済・延慶の両寺を合併し現在に至る。
本尊は、伝教大師作という延命安産の地蔵菩薩である。
(寺院パンフレットより)(寺院駒札 駒札2 より  )


京都市西京区地蔵院(竹の寺)参道 前方に総門 クリックで拡大

 
京都市西京区地蔵院竹の寺) 総門 総門をくぐるとさらに竹の山道が続く風致地区 クリックで拡大

 
京都市西京区地蔵院竹の寺) 参道(総門から本堂へ) 右写真は参道(帰り・本堂から総門へ) 
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京都市西京区地蔵院竹の寺) 本堂(地蔵堂)とその内部  写真右は紅葉の頃(ネットより) 
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京都市西京区地蔵院竹の寺) 総門の内側  写真右は本堂前を中門への参道 クリックで拡大

 
京都市西京区地蔵院竹の寺) 中門正面(本堂から見る) 右は中門内側
(左に弁天堂あり) クリックで拡大

 
京都市西京区地蔵院竹の寺) 中門から庫裏へ 右は庫裏の枯山水庭園(十六羅漢の庭) クリックで拡大

  
京都市西京区地蔵院(竹の寺) 庫裏(方丈)の地蔵院枯山水庭園(十六羅漢の庭) 
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京都市西京区地蔵院竹の寺) 開山宗鏡禅師の墓  細川頼之の墓 クリックで拡大

  
京都市西京区地蔵院竹の寺) 地蔵院鎮守稲荷大明神 右は寺院道標 クリックで拡大
中央の境内図の左半分を拡大 右半分を拡大



臨済宗
黄檗宗
葉室山浄住寺

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約1200年前に創建された嵯峨天皇勅願寺
公家葉室家の菩提寺として栄えたが何度も戦乱にも巻きこまれた 
大同5年(810)に嵯峨天皇の勅願寺として、円仁(慈覚大師)を開山として創建され、天台宗常住寺と号した。
弘長元年(1261)公卿葉室定嗣が奈良西大寺の叡尊を中興開山に迎え、浄住寺と改め、葉室家の菩提寺として栄えた。
後に、正慶2年(1333)の戦乱や、応仁元年(1467)の応仁の乱で荒廃した。貞享4年(1687)葉室頼孝は
黄檗宗の鉄牛道機を中興開山として再興し、黄檗宗の寺院となった
。(寺院駒札1 駒札2より)


京都市西京区浄住寺にて(10月) 参道 前方に総門 クリックで拡大

  
京都市西京区浄住寺にて(10月) 総門と参道の寺標   クリックで拡大


京都市西京区浄住寺にて(10月) 総門を入り本道までの参道 クリックで拡大

  
京都市西京区浄住寺にて(10月) 本堂 本尊は如意輪観音     
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京都市西京区浄住寺*にて(10月) 本堂と祝國扁額     クリックで拡大

  
京都市西京区浄住寺*にて(10月) 庫裏と葉室山扁額     
クリックで拡大

  
京都市西京区浄住寺*にて(10月) 庫裏の庭園     クリックで拡大

  
京都市西京区浄住寺*にて(10月) 鬱蒼とした境内     
クリックで拡大

 
京都市西京区浄住寺*にて(10月) 鬱蒼とした境内     クリックで拡大


京都市西京区浄住寺*にて(10月) 浄住寺より京都市内展望     クリックで拡大


嵯峨
京都嵯峨の寺
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京都市嵯峨にて(11月) 熊谷山法然寺 極楽殿

 


京都市嵯峨嵐山にて(11月) 帰峰山西光寺


高野山
高野山真言宗 遺跡本山
高雄山神護寺
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和気清麻呂の私寺
神護寺は神願寺と高雄山寺という二つの寺院が天長元年(824年)に合併して
できた寺であるとか。いずれも和気清麻呂の私寺であったらしい。



神護寺にて(11月) 石段を昇る中間地点に弘法大師にゆかりの硯石

 
京都市右京区神護寺にて(11月) 神護寺金堂 右は神護寺楼門 「神護寺の紅葉楼門に迫りおり

 
京都市右京区神護寺にて(11月) 薄緑の中に紅葉が混じる 右は硯石亭 信楽焼きの狸が目印(
クリックで拡大
神護寺にて(11月) 
神護寺本堂より石段下の眺め 
写真左手前の五大堂が
紅葉に隠れてしまったが 
写真奥の
毘沙門堂の一部が見える

 
神護寺にて(11月) かわらけ投げの前の茶屋と落ち葉


 
京都市神護寺にて(11月) かわらけ投げの手前の句碑 能村登四郎 <1911〜2001>の句碑(クリックで拡大) 
 
初紅葉せる羞ひを杉囲み

 
 
神護寺にて(11月) 紅葉の色も色々 ピンクの紅葉もあった 風呂敷の柄にも使えそうな 見事な自然の配色


神護寺にて(11月) かわらけ投げの舞台 写真の方向に向かって 
願をかけて投げる 
空を切るかわらけ紅く染まりおり

神護寺にて(11月) 
神護寺参道 硯石
栂尾山高山寺が漫画のルーツ
高雄山神護寺はファクシミリのルーツ
嵯峨天皇が空海に
「金剛定寺」の門額を書くよう命じたが、
清滝川が増水して門額を渡せない。
そこで空海がこの「硯石」で墨をすって
空に向かって字を書いたところ、
向こうの金剛定寺門額に
文字が表れた
*今は「金剛定寺」は無い

 
神護寺にて(11月) 真っ赤に燃える紅葉は、右の太陽フレアーかプロミネンスのように見える

 
神護寺にて(11月) 高雄山神護寺楼門をくぐって、
 かわらけ投げの舞台を彩る紅葉


真言宗
真言宗大覚寺派
槙尾山西明寺
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京都市真言宗大覚寺派槙尾山西明寺にて(11月) 本堂 山門を覆う紅葉 清滝川を渡り、急な石段を登ると山門

 槙尾山 西明寺 鐘楼 

三尾三山とは  
栂尾山 高山寺
槙尾山 西明寺
高尾山 神護寺

* 今は高雄と書かれるが
古くは高尾であったらしい

西明寺にて(11月) 右に崩れた土塀があって、
 その向こうは谷で清滝川が流れている
 

西明寺にて(11月) 清滝川の清流にかかる指月橋
清滝や波に散り込む青松葉」 芭蕉 


西明寺にて(11月) 中興の祖我宝自性上人 クリックで拡大 
「白露の 己が姿をそのままに 紅葉に置けば 紅の玉」


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