[仏 閣] 中項目・目次          HPのトップへ
 1.滋賀・和歌山 2.中国・四国 3.中部・北陸・東日本 4.京都 5.奈良 6.大阪 7.兵庫

4.京都 4-1 市内(東) 4-2 市内(中) 光悦寺 常照寺 源光庵 大徳寺 大徳寺塔頭 金閣寺 龍安寺 仁和寺 妙心寺 妙心寺塔頭 
等持院 真如寺 広隆寺 西本願寺 東本願寺 興正寺 平等寺 長講堂 延寿寺 六角堂 
4-2 市内(西)  4-3 京都府下

 
 4-2 京都市内(中) 
日蓮宗
大虚山光悦寺

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光悦寺庭園へ

江戸初期の文人、琳派の祖とも言われる本阿弥光悦の活動の本拠地。
光悦垣で知られる庭園に、多くの茶室があり、光悦会の茶会が行われる。

光悦と光瑳ら一族の墓がある。秋は紅葉の名所、夏の緑陰もすばらしい。
本阿弥光悦は徳川家康より、この地を貰い職人を集め、工芸集落を営んだ。松花堂昭乗と並ぶ書家であり、
陶芸に優れ、古田織部や千宗旦と茶道の奥義を極めた文人であった。日本庭園の光悦垣でも知られる。境内には
大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室と、庫裏に接して妙秀庵がある。


京都北区にて(9月) 日蓮宗大虚山光悦寺 山門と参道  クリックで内側

 
京都北区にて(9月) 日蓮宗大虚山光悦寺 本堂  
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京都北区にて(9月) 日蓮宗大虚山光悦寺 本堂 本堂の扁額 クリックで拡大 

 
京都市北区にて(9月) 日蓮宗大虚山光悦寺 本堂 庫裏前の礎石らしき石 クリックで拡大 
   
  
京都北区にて(9月) 日蓮宗大虚山光悦寺 参道と鐘楼  クリックで拡大

 
京都市北区にて(9月) 日蓮宗大虚山光悦寺 庭園の光悦寺垣  
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京都市北区にて(9月) 日蓮宗大虚山光悦寺 拝観受付所前参道から庭園へ  クリックで拡大 

 
京都市北区にて(9月) 日蓮宗大虚山光悦寺 庭園  クリックで拡大 

 
京都市北区日蓮宗大虚山光悦寺にて(9月)  本阿弥光悦翁墓所  
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京都市北区光悦寺にて(9月)  本阿弥光瑳
・光甫翁・他一族墓所 右は(財)光悦会物故会員供養塔 クリックで拡大 
注)大正4年に始まる光悦会は大師会とともに我が国の二大茶会である。

 
京都市北区日蓮宗光悦寺にて(9月) MONUMENT of MR. CHARLES L. FREER クリックで拡大 
チャールス・フリヤ記念碑 昭和五年五月光悦会会長大谷尊由 為光悦会男爵益田孝書 
(碑文趣旨)アメリカ人フリヤは、エール大学卒業後、鉄道会社を経て汽車製造会社を起した経営者。氏は東洋美術の研究に力を注き、
この寺を度々訪れ、我が国の工芸品を世界に伝え、後に、ワシントンにフリヤ美術館を建設した。ここに、氏と当寺との縁を、末永くに伝える。

  
京都市北区日蓮宗光悦寺にて(9月) 句碑 水原秋桜子<1892〜1981> 「
紅葉せり 徒(つ)らぬき立てる 松の幹
庭園付近の萩 もみじ 
ともにクリックで拡大

  
京都市北区日蓮宗大虚山光悦寺にて(9月) 茶室 左から三巴亭 了寂軒 翹秀 
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光悦寺には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室がある。

 
京都市北区光悦寺にて(9月) 茶室 大虚庵 本阿弥庵 クリックで拡大 

  
京都市北区光悦寺にて(9月) 境内の様子(庫裏と庫裏付近) 
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京都市北区日蓮宗大虚山光悦寺にて(9月) 鷹峰三山(左から鷹ヶ峰 鷲ヶ峰 天ヶ峰)  クリックで拡大 


京都市北区光悦寺にて(9月) 光悦寺から京都市東北部を展望  
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平成27年10月 京都国立博物館 琳派展パンフレット一部と本阿弥光悦作 国宝:舟橋蒔絵硯箱 
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 琳派の祖本阿弥光悦の妻と、俵屋宗達の妻とは姉妹であったという。 尾形光琳の祖父は光悦村の常連であった。 


大徳
日蓮宗
寂光山常照寺

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常照寺の庭のページへ

家康から拝領した光悦が寄進し、日乾(にちけん)上人を開山とする修行道場
毎年春の吉野太夫の花魁道中で知られる。太夫寄進の山門と太夫の墓所がある。

常照寺の開基は琳派の祖と呼ばれる本阿弥光悦である。光悦は家康から拝領した土地に、親類縁者や彼を慕う画家、
陶芸家、工匠らと移り住み、光悦村と呼ばれた芸術の郷を築いた。現在、光悦寺として残っている。日蓮宗の熱心な信者
であった光悦は土地の一部を寄進し、養子光瑳の発願で日蓮宗中興の祖・寂照院日乾上人を開山として、常照寺を開いた。
厳しい戒律の中、300人を越える学僧の修行道場「鷹峰檀林」となった。明治まで常照寺は檀林の寺と呼ばれた。
境内図


京都市北区にて(9月) 日蓮宗寂光山常照寺山門 吉野太夫寄進の吉野門  クリックで内側 

 
京都市北区にて(9月) 日蓮宗寂光山常照寺本堂 右は本堂後面  クリックで拡大 

  
京都市北区にて(9月) 日蓮宗寂光山常照寺本堂後面  右は本堂内部と扁額 
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京都市北区日蓮宗寂光山常照寺にて(9月) 左から妙法龍神 鬼子母尊神堂 常富大菩薩 クリックで拡大 

   
京都市北区日蓮宗寂光山常照寺にて(9月) 吉野太夫の墓  右は吉野太夫花供養(毎年4月第2日曜)と墓の駒札 クリックで拡大
吉野太夫、夕霧太夫、高尾太夫は寛永三名妓といわれる。彼女の命日は吉野忌として俳句の季語になっている。本阿弥光悦など文化人
と交流があり、のちに光悦の甥光益の子・灰屋紹益の正妻となった。 灰屋紹益<1610−1691>は、豪商灰屋紹由の養子。
和歌に,俳諧、書,蹴鞠、茶の湯などに長じ、近衛信尋と争い、吉野太夫を正妻とした。 吉野太夫花供養の写真は寺院HPより。

彼女は38歳でこの世を去り、遺言によって常照寺本堂裏の墓地に葬られた。悲しみに明け暮れた紹益は吉野の骨灰を飲み、
悲しみを詠んた。「
都をば花なき里になしにけり 吉野を死出の山に移して」(ネットより)

 
京都市北区常照寺にて(9月) 小直衣(このうし)姿の吉川観方像 
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右は吉川観方が蒐集した妖怪画(相馬の古内裏 歌川国芳)の例  参考関係画像
吉川観方<1894〜1979>は、時代風俗研究の権威で、京都を中心に日本画家、版画家、服飾研究家として活動。
その功績を称え昭和54年、帯塚に立像が設置された。
大阪歴史博物館で平成25年に、吉川観方特別展があった。

  
京都市北区常照寺にて(9月) 全国初の帯塚と由来駒札 クリックで拡大 

 
京都市北区常照寺にて(9月) 日蓮上人の言葉の碑と収蔵庫 
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日蓮上人の四条金吾殿への返事
蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり

    
京都市北区常照寺にて(9月) 境内(百度石付近、本堂付近) 
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京都市北区常照寺にて(9月) 境内(古井戸付近) クリックで拡大 

  
京都市北区日蓮宗常照寺にて(9月) 本阿弥光悦像(寺院説明ビデオより) 遺芳庵(左に吉野窓、右に湯沸し釜戸) クリックで拡大
茶室に用いられる円形のそこを少し欠いた「吉野窓」はこの遺芳庵を吉野太夫が好んだことが発祥という。(ネットより)

  
京都市北区日蓮宗常照寺にて(9月) 山内案内図(寺院HPより)と聚楽亭 右は扁額 
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京都市北区日蓮宗常照寺にて(9月) 白馬観音への門(右端は裏側) クリックで拡大


大徳
曹洞宗
鷹峰山寶樹林
源光庵

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角い迷いの窓と、丸い悟りの窓のある本
天井には血痕のある伏見桃山城の床板が貼られている
当山は、貞和2(1346)年に臨済宗大徳寺・徹翁国師が開創したが、元禄7(1694)年に加賀大乗寺の
卍山道白禅師が住持し、曹洞宗に改宗した。ご本尊は釈迦牟尼佛、両脇に阿難尊者と迦葉尊者を祀る。
本堂横には、享保4(1719)年に建立の開山堂があり、卍山禅師の木像を安置。本堂には、生老病死の
四苦八苦を表す「迷いの窓」と、悟りを表す円い「悟りの窓」がある。天井は血天井と呼ばれ、伏見桃山城
の遺構。慶長5(1600)年、家康忠臣鳥居彦右衛門の軍勢約1800人が、石田三成に敗れ、残る約380人も自刃し、
手や足の血痕が床に残された。その床板を源光庵など5つの寺院に奉納され、天井に張り、魂の供養が行われた。

血天井の養源院のページへ


京都市北区にて(9月) 曹洞宗鷹峰山源光庵 山門  クリックで内側 


京都市北区にて(9月) 曹洞宗鷹峰山源光庵 本堂  クリックで拡大 

  
京都市北区曹洞宗鷹峰山源光庵本堂にて(9月) 丸い「悟りの窓」 四角の「迷いの窓」  クリックで拡大 

 
京都市北区にて(9月) 曹洞宗鷹峰山源光庵 本堂  クリックで拡大 

  
京都市北区曹洞宗鷹峰山源光庵にて(9月)  本堂内部  クリックで拡大 

 
京都市北区曹洞宗鷹峰山源光庵にて(9月) 襖絵(江戸時代中期の絵師山口雪渓筆) 
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京都市北区曹洞宗鷹峰山源光庵にて(9月)  鐘楼  クリックで拡大 

  
京都市北区源光庵本堂にて(9月) 伏見桃山城の遺構 血天井 鳥居彦右衛門一党の血の跡 クリックで拡大 
血の床は東山区養源院、左京区宝泉院、北区正伝寺、宇治市興聖寺、北区源光庵の天井に張り、今も追善供養される。


  
京都市北区曹洞宗鷹峰山源光庵にて(9月)  血天井説明板 門と扁額 
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京都市北区にて(9月) 曹洞宗鷹峰山源光庵 境内  クリックで拡大 

 
京都市北区曹洞宗鷹峰山源光庵にて(9月) 庭園の灯篭  クリックで拡大 

  
京都市北区曹洞宗鷹峰山源光庵にて(9月)  庭園  クリックで拡大 


大徳
臨済宗大徳寺派
龍寶山大徳寺

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応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興した禅寺
千利休が三門金毛閣の二階に利休像を置いたため利休切腹の原因となった
秀吉が信長を弔い、塔頭を設け後継者たる証とした。石田三成の墓所がある
大徳寺由緒説明板
鎌倉時代末期に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃
したが、一休和尚が復興。
桃山時代には秀吉が信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔う総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に
戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)が南北に並ぶ。
山門は二階部分が、千利休によって増築され、金毛閣と称し、利休像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の
原因となった。本坊の方丈庭園(特別名勝)は江戸時代初期の枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)
がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)他国宝多数。
境内に、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺があり、貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。
(寺院HPより)
一休寺のページへ


京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 総門 クリックで別アングル

 
京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 勅使門(重要文化財)
と境内参道


京都市北区紫野にて(6月) 龍寶山大徳寺 大徳寺由緒説明板
伽藍塔頭配置山内図
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京都市北区紫野京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 参道

 
京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大本山 龍寶山大徳寺  三門金毛閣(重要文化財)クリックで拡大

 
京都市大徳寺にて(2月) 三門金毛閣(重文) クリックで拡大 右は正面の扁額(2月)

 
京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 三門金毛閣(重要文化財) クリックで組み構造 


京都市大徳寺にて(6月) 三門(重文)正面(勅使門側)  クリックで拡大

 
京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 参道


京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 仏殿(本堂)
クリックで本尊の釈迦如来を拡大表示 

 
京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 仏殿
仏殿前のイブキ(樹齢350年 京都市指定天然記念物) ヒノキ科 ビャクシン属 
クリックでイブキの駒札

 
京都市北区紫野大徳寺にて(6月) 仏殿(本堂)と本尊の釈迦如来  クリックで拡大

 
京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 仏殿から法堂への名月橋  写真右は仏殿(本堂)

 
 
京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 法堂と法堂横参道 クリックで拡大

 
京都市北区紫野臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺にて(2月)  宗務本所 クリックで拡大

 
京都市紫野龍寶山大徳寺にて(6月) 大徳寺法堂  右は山門脇の平康頼之塔(クリックで拡大

 
京都市北区紫野 龍寶山大徳寺にて(6月)  宗務本所 法堂から宗務本所大方丈へのわたり


大徳寺本坊
冬の特別公開

 
京都市北区紫野大徳寺にて(6月) 臨済宗龍寶山大徳寺 宗務本所 クリックで拡大

 
京都市北区紫野大徳寺にて(6月) 臨済宗龍寶山大徳寺 宗務本所 
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京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月) 方丈 日光の日暮門の模型となった唐門(国宝) 
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京都市北区紫野龍寶山大徳寺方丈にて(1月) 方丈南庭 
クリックで拡大

 
京都市北区紫野大徳寺にて(1月) 小堀遠州作 方丈東庭(七五三の庭) クリックで拡大

  
京都市北区紫野龍寶山大徳寺方丈にて(1月) 鐘楼 方丈の坪庭 右は北側の庭 
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徳寺塔頭
大徳寺塔頭

聚光院

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特別公開
聚光院説明板

千利休の墓と三千家(表・裏・武者小路)歴代の墓所
狩野松永、永徳父子による国宝の襖絵と名勝百積の庭が名高い

大坂堺を治めた三好長慶の養子・義継が永禄9年(1566)に養父長慶の菩提を弔うために笑嶺和尚を開山として建立。
千利休が開祖。笑嶺和尚に参禅したことから、三千家の菩提寺となっている。寺院名は
長慶の法名に由来する。方丈の襖絵は
狩野松永、永徳父子によるもので国宝である。
茶室は表千家7世・如心斎が寄進した閑隠席(かんいんせき)と同じ建物内
桝床席(ますどこせき)の二つがある。千利休作と伝わる国の名勝聚光院庭園は、方丈の前の苔庭に直線上に
庭石を置き、石組みの多いことから「百積(ひゃくせき)の庭」といわれる。



京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(2月) 聚光院 表門 クリックで拡大

 
京都市北区大徳寺にて(2月) 聚光院 表千家家紋の幕(家紋拡大)のある表門  クリックで拡大
右は表門を入って右の庭  
大徳寺茶会の様子

  
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(2月) 聚光院 重文表示 氷ついた蹲 クリックで拡大

 
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(2月) 聚光院 庫裏 右は寺院発行の絵葉書より方丈と方丈庭園(百積の庭)クリックで拡大


京都市北区紫野龍寶山大徳寺 聚光院方丈障壁画 狩野永徳作花鳥図 16面の一部 ネットより転載

 
京都市北区大徳寺にて(2月) 聚光院 冬の旅入山券(裏) クリックで拡大
右は聚光院入山券(表) 券の写真は茶室「閑隠席(重文)」 


大徳寺塔頭
 三玄院
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非公開

石田三成、古田織部らの墓所
十六世紀、浅野幸長、石田三成、森忠政が春屋宗園を開祖として創建。
石田三成や古田織部、春屋宗園の墓がある小堀遠州、千宗旦とも関係があり、
織部好みの茶室がある大徳寺塔頭(三玄院説明板

 
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(2月)  石田三成墓所 三玄院 写真クリックで拡大


大徳寺塔頭 正受院
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非公開


京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(6月) 正受院 クリックで拡大


大徳寺塔頭 興臨院
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特別公開(興臨院説明板

 
京都市北区紫野にて(2月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺
興臨院表門・古門(重文) 
写真クリックで拡大

 
京都市北区紫野にて(6月) 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 興臨院 写真クリックで拡大

 
京都市北区紫野臨済宗大徳寺にて(2月)  興臨院唐門と唐門(重文)への参道 
写真クリックで拡大


京都市北区紫野臨済宗大徳寺にて(2月)  興臨院方丈前枯山水庭園 クリックで拡大

  
京都市北区紫野臨済宗大徳寺にて(2月)  興臨院庫裏 鐘 右は方丈庭園西南部 
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京都市北区紫野臨済宗大徳寺にて(2月)  興臨院方丈庭園西部 
クリックで拡大

  
京都市北区紫野臨済宗大徳寺にて(2月)  興臨院茶室 涵虚亭(かんきょてい) クリックで拡大

 
京都市北区紫野臨済宗大徳寺にて(2月)  冬の旅興臨院入山券表裏 クリックで拡大


大徳寺塔頭 得禅寺 真珠庵
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非公開

 
京都市北区紫野にて(6月) 龍寶山大徳寺 徳禅寺表門 真珠庵表門 写真クリックで拡大


大徳寺塔頭 芳春院
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冬の特別公開

加賀百万石前田家「まつ」の院号
芳春院を戴く前田家の菩提寺
説明板

 
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(6月)  芳春院表門と加賀前田家の梅の紋瓦 写真クリックで拡大

  
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月)  芳春院表門と鐘楼 写真クリックで拡大

    
京都市北区紫野にて(6月) 龍寶山大徳寺 塔頭芳春院表門 右は(1月) 
写真クリックで拡大

 
京都市北区紫野にて(6月) 龍寶山大徳寺 芳春院参道 右の壁内は大仙院

  
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月)  芳春院参道 写真クリックで拡大

 
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(6月) 芳春院参道の地蔵堂(一期一会の額)
右は童地蔵(
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京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月) 芳春院庫裏 庫裏変額は「諸国禅窟」 クリック拡大 

  

京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月) 芳春院本堂南庭「花岸庭」と右は本堂(本尊は釈迦如来) クリック拡大 

 
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月) 芳春院本堂南庭「花岸庭」 クリック拡大

  
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月) 芳春院本堂北側小堀遠州による「呑湖閣(どんこかく)」 
クリック拡大
呑湖閣へは池「飽雲池」にかかる橋「打月橋」渡る。呑湖閣の二階には先祖とされる菅原道真を祀る。他の呑湖閣の写真

 
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月) 芳春院本堂内の庭 クリック拡大

 
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(1月) 芳春院参道内にある塔頭如意庵と龍泉庵 クリック拡大



大徳寺塔頭 龍源院
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常時公開龍源院説明板

 
京都市北区紫野 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 龍源院表門 重文の表示 クリックで拡大

 
京都市北区紫野 大徳寺 塔頭 龍源院 枯山水の庭園と坪庭 
写真クリックで拡大


京都市北区紫野 龍寶山大徳寺にて(6月)塔頭 龍源院

大徳寺塔頭 瑞峯院
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常時公開(瑞峯院説明板

九州のキリシタン大名大友義鎮の菩提寺で白砂の庭石が
大きな十字架状に配置されていると言われている。寺名は大友義鎮の法名に由来。

 
京都市北区紫野 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 瑞峯院表門と茶室 写真クリックで拡大

 
京都市北区紫野 龍寶山大徳寺 塔頭 瑞峯院 枯山水の庭園 写真クリックで拡大


大徳寺塔頭 大仙院
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常時公開
(大仙院説明板)


 
京都市北区紫野 臨済宗大徳寺にて(6月) 大仙院 写真クリックで拡大

   
京都市北区紫野龍寶山大徳寺にて(6月) 大仙院(正面の真珠庵前を左折) 写真クリックで拡大

 
京都市北区紫野 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 塔頭大仙院の玄関(国宝)と鐘楼

 
都市北区紫野 臨済宗大徳寺派大本山 龍寶山大徳寺 塔頭大仙院の受付付近

 
京都市北区紫野にて(6月)龍寶山大徳寺 塔頭大仙院 (写真は水野克比古氏)
大徳寺塔頭庭園のページへ


金閣寺
世界遺産 臨済宗相国寺派
北山鹿苑寺
(金閣寺)

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鹿苑寺は足利義満の法名に因む寺院。寺紋は五七桐
五七桐は皇室の紋で関白秀吉が使用を許された。現在は政府が使用中

室町時代前期の北山文化を代表する建築で、中心となる建築物である舎利殿を金閣、寺院全体を金閣寺と
通称する。昭和25年(1925)、放火により国宝金閣舎利殿と仏像等を焼失し、国宝指定が解除されたが、政府や
京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金などにより、昭和30年(1955)竣工し、創建当時
の姿に復元された。平成6年(1994)に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。


京都市 臨済宗相国寺派 鹿苑寺 金閣(8月) 世界遺産 写真クリックで(11月)へ  


京都市 臨済宗相国寺派 鹿苑寺 総門(8月)

京都市鹿苑寺 金閣舎利殿(8月) 
クリックで拡大

 
京都市北区にて(11月) 金閣 鹿苑寺 総門(表側) 
右写真クリックで拡大


京都市鹿苑寺にて(8月) 鏡湖池と金閣(8月)

京都市鹿苑寺にて(8月) 鐘楼 クリックで拡大  

 
京都市鹿苑寺金閣にて(11月) 鏡湖池と金閣の鳳凰 クリックで拡大

 
京都市 鹿苑寺 金閣(8月) 
写真クリックで拡大


京都市 鹿苑寺 総門前庭園(8月) クリックで拡大

京都市 鹿苑寺 茶室 夕佳亭(8月) クリックで拡大

 
京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 方丈庭園より見る金閣  
右写真クリックで拡大

 
金閣寺にて(8月) 夕佳亭前の貴人とう(腰掛岩) クリックで拡大 説明板はこちら 右写真は安民澤


京都市 臨済宗相国寺派 鹿苑寺 案内板(8月) 世界遺産

 
京都市鹿苑寺にて(8月) 各種札売り場  右は龍門滝と鯉魚石 クリックで拡大 滝の説明板はこちら

 
京都市鹿苑寺にて(11月) 金閣寺垣 
クリックで拡大

 
京都市鹿苑寺にて(11月) 銀河泉 巌下水 クリックで拡大



京都市 鹿苑寺 書院前の陸船の松(8月)
方丈北側にある足利義満手植えと伝えられる松。
京都三松の一つ
写真かクリックで拡大

京都市 鹿苑寺 不動堂(8月)
写真かクリックで拡大
  

京都市 鹿苑寺 総門を入って唐門に向かう
写真クリックで前方の唐門を拡大
鹿苑寺金閣は戦前から(旧)国宝に指定されていたが、
昭和25年(1950)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により
炎上(金閣寺放火事件)。林は寺の裏山で自殺を図った。
彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、
その帰りに保津峡で投身自殺。
建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。
屋上の鳳凰は取り外されていたため焼失をまぬがれた。
この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説
五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。

現存の金閣は、昭和30年(1955)に旧建物の
 資料を基に 再建されたものである。
昭和62年(1987)に金箔を張り替える修復工事を終えた。
 1層(初層):寝殿造りで法水院(ほうすいいん)と言い、
 宝冠釈迦如来像と足利義満像を安置。
 2層:武家造りで潮音洞(ちょうおんどう)と言い、
 岩屋観音像と四天王像を安置。
 3層:禅宗仏殿造りで究竟頂(くっきょうちょう)と言う


京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 唐門と方丈庭園


京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 方丈入口・唐門

京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 庫裏


京都市にて(8月) 鹿苑寺 方丈 


京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 方丈庭園

 
京都市北区にて(11月) 金閣寺方丈 右は鹿苑寺(金閣寺)方丈扁額


金閣鹿苑寺にて(11月) 方丈北側中庭の紅白南天

金閣鹿苑寺にて(11月) 方丈庭園
(西側)

金閣鹿苑寺にて(11月) 方丈庭園(南側)

金閣鹿苑寺にて(11月) 方丈庭園蹲

 
京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 方丈庭園


金閣鹿苑寺にて(11月) 方丈庭園と鏡湖池

金閣鹿苑寺にて(11月) 方丈庭園の陸舟の松

金閣鹿苑寺にて(11月) 方丈と書院間の中庭

金閣鹿苑寺にて(11月) 方丈庭園と鏡湖池

 
京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 参道 正面は唐門 右は黒門  
クリックで拡大

 
京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 参道 
写真クリックで黒門など拡大

 
京都市北区金閣鹿苑寺にて(11月) 鐘楼  右は舟形一文字蹲 
クリックで拡大

 
京都市北区にて(11月) 鹿苑寺(金閣寺) 世界遺産の石碑(総門前) 
クリックで拡大


龍安
世界遺産 臨済宗妙心寺派
大雲山龍安寺

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枯山水の方丈石庭で知られる、妙心寺の境外塔頭
龍安寺は枯山水の方丈石庭で知られる。禅宗が盛んだった室町幕府の管領、守護大名で、
応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450)に創建した禅寺。寺の所在地は、
藤原北家の流れを汲む徳大寺家の山荘を、細川勝元が譲り受けたもの。初代住職として
妙心寺5世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。妙心寺の境外塔頭でもある。


京都市右京区にて(8月) 臨済宗妙心寺派 世界遺産大雲山龍安寺 総門


  京都市右京区大雲山龍安寺にて(8月) 山門内側

京都市右京区大雲山龍安寺にて(11月) 山門表側

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 参道


京都市大雲山龍安寺にて(11月) 手水

写真左は龍安寺垣の参道              

京都市大雲山龍安寺にて(11月) 井戸

京都市大雲山龍安寺にて(11月) 鏡容池の屋型舟

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 庫裏前の龍安寺垣参道  参道横の石の大仏(阿弥陀如来)


京都市大雲山龍安寺にて(8月) 庫裏

京都市大雲山龍安寺にて(11月) 参道

 
龍安寺パンフレットより 紅葉の庫裏 右は境内図(クリックで拡大

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 勅使門  右は方丈勝手口

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 水戸光圀寄進の蹲(吾唯足知)クリックで拡大 写真右は龍安寺パンフレットよりクリックで説明板


京都市大雲山龍安寺にて(11月) 昭堂

大雲山龍安寺にて(11月) 方丈から仏殿への渡り廊

京都市龍安寺にて(11月) 方丈裏の龍安寺垣 竹のページへ

京都市大雲山龍安寺にて(11月) 仏殿の門


京都市大雲山龍安寺にて(H23年11月) 石庭 
クリック拡大


京都市大雲山龍安寺にて(H21年8月) 修理中の石庭

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 石庭


京都市大雲山龍安寺にて(11月) 方丈 
クリックで拡大
禅宗寺院特有の天井(各部屋の欄間の手が空いている)

 
京都市大雲山龍安寺にて(8月) 青葉の頃の石庭 右写真クリックでミニ石庭模型(目の不自由な人用)


京都市大雲山龍安寺にて(11月)
庫裏の鐘

龍安寺方丈の扁額(11月)

右は龍安寺門前に住んだ
漢学者寺西乾山
けんざん
(1859-1945)筆
雅号紫芝山人(
ししさんじん

庫裏玄関の屏風「雲関」


京都市臨済宗妙心寺派大雲山龍安寺にて(11月) 石庭  
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龍安寺 庭にて ヤブラン (8月) ユリ科 ヤブラン属

京都市 大雲山 龍安寺 鏡容池(8月) クリックで拡大

龍安寺境内のパゴダ(11月) クリック一部拡大
第二次世界大戦でビルマに参戦した龍安寺第58代松倉紹英
住職等の発願により国のために生命を捧げた亡き戦友達の
慰霊の為復員した戦友一同の募金により昭和45年8月に建立

京都市 大雲山 龍安寺 (8月)


京都市大雲山龍安寺にて(11月) 池泉回遊式庭園 鏡容池

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 鏡容池 
クリックで池の鴨の番と柿を拡大

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 池泉回遊庭園の一部と庭の隅の小さな滝 

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 鏡容池


京都市大雲山龍安寺にて(11月) 妙心寺境外塔頭大珠院(鏡容池越し)

 
京都市大雲山龍安寺にて(11月) 妙心寺境外塔頭西源院(山門と湯どうふ勝手口)


京都市大雲山龍安寺にて(11月) 駐車場方面への参道 クリックで拡大


仁和寺
世界遺産 真言宗御室派総本山
仁和寺
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宇多天皇の御室御所(仁和寺門跡)
御室流華道総司所
仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始めたが、同天皇は完成を見ずに
翌年崩御され、遺志を引き継いだ宇多天皇により、2年後に落成し、西山御願寺と称した。
後に年号をとって仁和寺とした。宇多天皇は出家後、伽藍の西南に御室という僧坊を建てて住まわれた
ので御室御所の別称がある。御室の旧地には現在、仁和寺御殿という御所風の建築群が建ち、
国の史跡に指定されている。徒然草に憎めない和尚。抜けない壺岩清水参拝の話



京都市右京区御室にて(11月) 仁和寺 二王門(表)(重要文化財)

 
右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 本坊表門と御室流華道総司庁碑


 
右京区御室仁和寺にて(11月) 御殿入口


京都市右京区御室にて(8月) 仁和寺 金堂(国宝)


右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 平唐門

右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 本坊表門内部


京都市右京区御室にて(11月) 仁和寺御殿 白書院と南庭(宸殿より)



右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 白書院扁額

右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 白書院額

 
右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 白書院中庭



京都市右京区御室にて(11月) 仁和寺 勅使門(表)



右京区御室仁和寺にて(11月) 南庭勅使門(右に二王門)

右京区御室仁和寺にて(11月) 南庭勅使門(内側)

右京区御室仁和寺にて(11月) 黒書院付近中庭

右京区御室仁和寺にて(11月) 白書院への渡殿

 
右京区御室仁和寺にて(11月) 黒書院付近小庭



御室仁和寺御殿にて(11月) 黒書院から宸殿への小庭

右京区御室仁和寺にて(11月) 白書院扁額遼廓亭


京都市右京区御室にて(11月) 仁和寺御殿 宸殿と南庭(白書院より)


右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 宸殿の間

右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 宸殿


右京区御室にて(11月) 仁和寺御殿 北庭と飛濤亭 五重塔 
クリックで拡大


右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 宸殿前北庭

右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 宸殿前南庭


京都市右京区御室にて(11月) 仁和寺 御殿 霊明殿 写真クリックで拡大


右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 北庭と南庭間の塀

右京区御室仁和寺御殿にて(11月) 北庭と霊明殿


京都市右京区御室にて(11月) 仁和寺御殿 北庭と飛濤亭 クリックで拡大


右京区御室仁和寺にて(11月) 経蔵

右京区御室仁和寺にて(11月) 金剛華菩薩像

 京都市 仁和寺 東門(8月) 

 京都市 仁和寺 観音堂(8月) 境内案内図

 京都市 仁和寺 経蔵(重文)(8月) 

 京都市 仁和寺にて(8月) 二王門(重文) 

京都市 仁和寺 中門(重文)(8月) 写真クリックで拡大

右京区御室仁和寺にて(11月) 中門の仁王


京都市 仁和寺 金堂(国宝)(8月)

 
京都市仁和寺にて(8月) 名勝御室桜 御室桜碑はクリックで拡大


右京区御室仁和寺にて(11月) 西門へ

京都市 仁和寺 金堂(国宝)(8月) 
写真クリックで拡大

京都市仁和寺にて(8月) 五重塔(重文)

右京区御室仁和寺にて(8月) 鐘楼


 京都市 仁和寺 二王門(重文)(8月) 中門より 写真クリックで拡大


右京区御室仁和寺にて(11月) 御室会館

右京区御室仁和寺にて(11月) 霊宝館


京都市右京区御室にて(11月) 仁和寺 二王門(内側)(重要文化財)

 
京都市右京区御室にて(11月) 仁和寺 二王門には仁王(表側)と狛犬(内側)


妙心
臨済宗妙心寺派大本山
正法山妙心寺
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京都市花園に46の塔頭をもつ、壮大な臨済宗の大本山
全国に3500の妙心寺派寺院を従える。狩野元信による史跡
名勝庭園「元信庭園」中根金作の名庭「余香苑」がある

開基は花園天皇、開山は関山慧玄(無相大師)で、臨済宗寺院約6,000ヶ寺のうち、
約3,500ヶ寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂などの中心伽藍の周囲には
多くの塔頭寺院が建ち並び、一大寺院群を形成している。宮本武蔵が参禅した退蔵院の庭でも有名。
妙心寺庭園のページへ


京都市右京区にて(9月) 臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺 南総門 妙心寺境内図1


京都市右京区
妙心寺
にて(11月) 臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺 北総門  


京都市右京区にて(11月) 臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺 南総門 境内図2

 
京都市妙心寺にて(6月) 左が勅使門 右が南総門 クリックで拡大

 
京都市妙心寺にて(3月) 左が勅使門 右が南総門 クリックで拡大


 京都市妙心寺にて(2月) 重要文化財 法堂(南側より) 右奥は方丈 
法堂内に徒然草の国宝妙心寺鐘(黄鐘調鐘)、天井には狩野探幽作「雲竜の図」


 
京都市妙心寺にて(2月) 法堂天井の狩野探幽作「雲竜の図」(妙心寺パンフレットより) 右は(9月クリックで拡大
パンフレットの天井絵は完全な円形に撮れたものがない、上下か左右が切れている。

 
京都市妙心寺にて(2月) 東南から見た仏堂(手前)と法堂(奥) 写真クリックで(9月)の写真へ
右は南西から見た仏堂(手前)と法堂(奥)(3月) 
クリックで拡大   境内案内図へ 


京都市妙心寺にて(2月)大方丈(重要文化財)


京都市右京区妙心寺にて(9月) 臨済宗妙心寺派大本山 仏殿


 
妙心寺にて(3月)写真右は(9月) 徒然草の妙心寺鐘 黄鐘調鐘楼 鐘は国宝でレプリカが吊られている
国宝の実物は法堂内に保管され、法堂天井の雲龍と同時に拝観可能。鐘の音はCDで聞かせている
写真左(
クリックで拡大)の向こう側が霊雲院(妙心寺四派四本庵の一つ)

 
  
京都市妙心寺にて(2月) 右は(9月) 重要文化財 浴室(明智風呂) 

 
京都市妙心寺にて(9月) 経堂
と右写真は勅使門(
クリックで別の写真を拡大


 妙心寺にて(2月) 多くの鐘楼がある
鐘楼(その2) 

妙心寺にて(9月) 鐘楼(その3) 
クリックで拡大
浴室(明智風呂)の準備の合図に使用された

 妙心寺にて(2月) 鐘楼(その4)  

妙心寺にて(2月) 鐘楼(その5) 


 京都市妙心寺にて(2月) 重要文化財 三門(南側) クリックで拡大


京都市妙心寺にて(9月)  勅使門から見た三門(南側)重要文化財

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 大方丈 玄関 
クリックで妙心寺全体境内図

 
京都市右京区にて(9月) 臨済宗妙心寺派大本山妙心寺 大方丈

 
京都市右京区臨済宗妙心寺にて(9月) 大方丈の3500の妙心寺派寺門札 右は方丈前庭園(
クリックで拡大

 
京都市右京区妙心寺にて(9月)  臨済宗妙心寺派大本山 大方丈内


妙心寺にて(2月) 広い境内の一部 クリックで拡大

 妙心寺にて(6月) 涅槃堂(納骨堂) 

 妙心寺にて(6月) 仏殿 案内図

 妙心寺にて(6月) 手前から三門、仏殿、法堂 

  
京都市右京区妙心寺にて(3月) 涅槃堂(納骨堂) 
クリックで拡大



妙心寺塔頭
妙心寺塔頭
 玉鳳院
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特別公開

花園法皇の離宮を禅寺に改めたのが起りで、
玉鳳院は法皇が建てた山内最古の塔頭寺院で、中に開山堂がある。

檜皮葺屋根の寝殿風の方丈は、狩野永真(安信)や洞雲(益信)の筆と伝わる障壁画麒麟図、竜図、秋草図
などがある。開山堂・微笑庵(重文)は、開山・無相大師(関山慧玄)を祀る山内最古の建物で、室町時代の唐様建築。
また、蓬莱式の枯山水庭園(史跡名勝)や井戸風水泉、豊臣秀吉の子・鶴松の霊屋(たまや)がある。


 
京都市右京区妙心寺にて(3月)塔頭玉鳳院 クリックで拡大

  
京都市右京区妙心寺にて(3月) 塔頭玉鳳院 玄関内部 牛石 クリックで拡大

 
京都市右京区妙心寺にて(3月) 玉鳳院 玄関 
クリックで拡大

  
京都市右京区妙心寺にて(3月) 玉鳳院玄関より(奥に方丈)
写真右は方丈と庭園(史跡・名勝写真は寺院HPより) 開山堂  
クリックで拡大


京都市右京区妙心寺にて(3月) 玉鳳院方丈の襖絵 クリックで拡大

 
京都市右京区妙心寺にて(3月) 玉鳳院にある開山堂(左写真は寺院HPより) 
クリックで拡大
開山堂は妙心寺で最も神聖な場所(東福寺より移築された)。堂内の常夜灯と常香盤は常に灯が灯され、香が焚かれている。
祀られる開山像は、輪番の山内の和尚によって、「在すが如く」毎朝の洗面と三度の食事が供えられ、ご供養が勤められている。


京都市妙心寺にて(3月) 玉鳳院特別公開案内 クリックで襖絵拡大

   
京都市妙心寺にて(3月) 玉鳳院向唐門と平唐門 右は平唐門(応仁の乱での消失を免れた)の応仁の乱戦闘傷跡 
クリックで拡大

  
京都市妙心寺にて(3月) 塔頭群を往く参道 玉鳳院の鐘楼 クリックで拡大



妙心寺塔頭
妙心寺塔頭 退蔵院
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常時拝観可能


京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院薬医門 退蔵院境内図 クリックで拡大

 
京都市右京区にて(11月) 臨済宗妙心寺派大本山 塔頭退蔵院 庫裏 右は庫裏玄関(9月)

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 聖観音像 右は水子地蔵像

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 薬医門をはいって左右の庭 木陰の招き猫

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 本堂 濡れ縁の向こうが名勝庭園 写真左はクリックで拡大

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院本堂瓢鮎図(ひょうねんず)
如拙が足利義持の命により描いた禅画(国宝) パンフより転写 
クリックで説明板拡大
「ぬらりくららり」を「ひょうたんなまず」というのは此処から来たらしい


明治生まれの著名な建築家
伊藤忠太
(1867〜1954)の絵画集に
妙心寺塔頭退蔵院の瓢箪鯰とおなじ
題材の絵があった。
伊東忠太は京都の祇園閣、
西本願寺伝導院
橿原神宮、平安神宮、
築地本願寺他の設計者。

左の絵は伊東忠太作品集より
クリックで拡大します

伊東忠太関連写真ネット

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 本堂の玄関 右は方丈庭園  写真クリックで説明板

  
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 本堂の南前の方丈庭園  中央は退蔵院境内図クリック拡大)  庭園案内碑

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院の西に位置する名勝史跡 退蔵院庭園(元信方丈庭園) クリックで拡大

  
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院の説明板  クリックで拡大

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 余香苑 入口



京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 池泉回遊式庭園 余香苑

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 池泉回遊式庭園 余香苑


京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 池泉回遊式庭園 余香苑

 
京都市右京区妙心寺にて(9月) 塔頭退蔵院 池泉回遊式庭園 余香苑


妙心寺塔頭 東林院
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特別公開

沙羅双樹の花作寺
夏椿の咲く頃に毎年公開される



京都市妙心寺にて(3月) 塔頭東林院山門 クリックで拡大 

 
京都市妙心寺にて(3月) 塔頭東林院庫裏と本坊 クリックで拡大

 
妙心寺にて(6月) 東林院玄関と本坊 沙羅双樹(枯木と若木)
右写真:大きな2本の幹の方は今は枯れ木で大きな数珠が掛けられている。その周りに沙羅の樹の若木

  
妙心寺塔頭東林院にて(6月) 沙羅の樹(夏椿)の花 沙羅双樹の花瓦(鬼瓦に相当)
インドの沙羅双樹とは少し相違するという


   
京都市妙心寺にて(3月) 塔頭東林院の童地蔵 陶板 歌碑 クリックで拡大 
右端の歌碑は山田無文<1900〜1988>「
佛さえ みまかりませし 花の色 見ていま沙羅に おもえ諸人


妙心寺塔頭 麟祥院
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特別公開

春日局座像(小堀遠州作)のある寺院
春日野局の菩提寺、寺名は局の法名に由来
徳川三代将軍家光が乳母、春日局の香華所として建立した。御霊屋には小堀遠州作の局の木像が安置され、
方丈には、海北友雪による「雲龍図」等の水墨画が描かれている。春日野局の墓は東京の天澤山麟祥院にある。


  
妙心寺にて(2月) 麟祥院 山門 
 

 妙心寺にて(2月) 麟祥院 方丈庭園  

 妙心寺にて(2月) 麟祥院 参道

妙心寺にて(2月) 麟祥院方丈 家光が賜った「百椿図屏風」
雄雌の龍が左右の襖に描かれている

 妙心寺にて(2月) 麟祥院 「御霊屋」
 ここに微笑む春日局座像(小堀遠州作)がある

 妙心寺にて(2月) 麟祥院 方丈庭園の鯱 

 妙心寺にて(2月) 麟祥院 方丈前庭園 


妙心寺塔頭 海福院
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特別公開

 賤ヶ岳七本槍の筆頭、福島正則の菩提寺 
等持院の方丈は海福院から移された
法堂の「雲竜の図」製作時に狩野探幽が滞在した折の「猿回し図」屏風もある。
寺でご法度の茶の湯の設備を押入れに仕込ませた点茶、水屋がある 等持院へ



妙心寺にて(2月) 海福院 山門


 妙心寺にて(2月) 海福院 福島正則の墓 

 妙心寺にて(2月) 海福院 庭園

 
妙心寺にて(2月) 塔頭海福院 庭園 



妙心寺塔頭 霊雲院
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特別公開

後奈良天皇の行幸の書院が保存されている。
 妙心寺の四派四本庵の一つの塔頭寺院。哲学者西田幾多郎の墓所
妙心寺派26代官長山田無文は、霊雲院の住職であった
1526年頃に四派四本庵による妙心寺運営体制が確立した。四派とは、龍泉派・東海派・霊雲派
聖澤派をいい、四本庵は龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院のことで妙心寺の末寺は四本庵の元にある。

 
妙心寺にて(3月) 塔頭霊雲院山門とその左脇にある西田幾多郎墓碑 
クリックで拡大

 
妙心寺塔頭霊雲院にて(3月) 山門を入ると左に玄関、右に庫裏と観音像 クリックで拡大

 
妙心寺塔頭霊雲院にて(3月) 山門を入ると左に勅使門へのくぐり、右に庫裏 クリックで拡大

   
妙心寺塔頭霊雲院にて(3月) 勅使門(唐門) 右は方丈庭園(写真はネットより) クリックで拡大

  
妙心寺塔頭霊雲院にて(3月) 勅使門を入ると参道 左右に庭園 右に山門へのくぐり クリックで拡大

   
妙心寺塔頭霊雲院にて(3月) 京の冬の旅案内パンフレット 案内看板 クリックで拡大
京の冬の旅」パンフレット題字は元山田無文妙心寺管長(元霊雲院住職)筆。 左パンフレットの拡大で方丈と後奈良天皇の
行幸があった書院「御幸の間」(重文)の写真が見られるが、実物は極めて簡素である。書院前の枯山水庭園の写真はない。

 
妙心寺霊雲院にて(3月) 西田幾多郎(明治3年〜昭和20年)の墓(写真はネットより)
毎年6月7日の命日は「寸心忌」として哲学者や、弟子から偲ばれている。


妙心寺塔頭
衡梅院・大心院・天授院・
聖澤院・春光院
大通院・
龍泉菴・隣華院・金牛院・慈雲院・天球院・長興院
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非公開 


妙心寺にて(9月) 衡梅院 
クリックで拡大

 妙心寺にて(2月) 大心院 

 
妙心寺にて(9月) 衡梅院 クリックで拡大  説明板


 妙心寺にて(2月) 天授院 本派専門道場 碧巌録提唱
(9月)の写真へ  クリックで拡大

右京区妙心寺にて(11月)
塔頭隣華院

 妙心寺にて(2月) 春光院 
 クリックで別アングル

 妙心寺にて(2月) 大通院 
クリックで11月の写真へ

 
 妙心寺にて(2月) 広い境内の一部 


 
右京区妙心寺にて(11月)  塔頭竜泉庵(四派四本庵)
 クリックで拡大 


京都市妙心寺にて(2月) 聖澤院(四派四本庵)


 
右京区妙心寺にて(11月) 塔頭金牛院  右は長興院(9月)

京区妙心寺にて(9月) 慈雲院

右京区妙心寺にて(11月) 塔頭天球院


等持
臨済宗 天竜寺派
萬年山
等持院
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足利氏の菩提寺、足利尊氏の墓所
夢窓国師作と伝わる庭園でも知られる

等持院は、室町幕府を開いた足利尊氏が暦応4年(1341)、夢窓疎石(夢窓国師)を開山に創建した。当初、
等持寺別院として北等持寺と呼ばれたが、尊氏の死後はその墓所とし、尊氏の法名から寺号を等持院とした。以来、
足利家の菩提寺として、北山に大きな寺域を占めていたが衰退し、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって復興された。
その後、文化5年(1808)の火災にあい、元和2年(1616)、方丈が妙心寺塔頭海福院から移築され現在に至る。
庭園は、尊氏の墓を境に、東西2つの池を中心とした庭に分かれる。庭園は、西芳寺、天龍寺の庭園を作った
夢窓国師が作庭したという。その後も、火災にあったが、昭和10年代前半(1935〜)に再び復元された。
 
京都市都市緑化協会HP
参照



京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 山門 クリックで3月の山門 案内板


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 中門  等持院駒札

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 中門前の鐘楼


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 庫裏

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派万年山等持院 方丈の衝立祖師図(天龍寺のページと同じ)
写真右は中門右に咲いていた百日紅 ミソハギ科 サススベリ属


 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 庫裏


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 方丈前庭(枯山水)西より


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院
方丈前庭(枯山水)東より 
クリックで拡大


 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 霊光殿 本尊の地蔵菩薩像、足利歴代の将軍と徳川家康の木像がある
霊光殿には足利氏を崇めた徳川家康像が岩清水八幡宮から移されて安置されている。

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院
霊光殿への渡り 
説明版クリックで拡大


 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 霊光殿
右写真は霊光殿の裏に咲いていたヤブラン ユリ科 ヤブラン属 
クリックで拡大

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 足利尊氏の墓
写真右は足利家十五代供養搭 
写真クリックで拡大


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 方丈庭園(池泉回遊式)西側
芙蓉池の中央の中の島(蓬莱島)には観音閣があった。夢窓国師の作になる三大名園の一つ。


 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 方丈庭園より方丈(本殿)を見る
現方丈は元和2年(1616)に福島正則が妙心寺海福院から移設したもの。襖絵は狩野興以の作
本尊は釈迦牟尼仏 
庭園越しに見る方丈の写真及び説明版をクリックで拡大

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 方丈庭園西側 借景の衣笠山は、現在は
立命館大学の建物で
見えない。
大学の手前に、建物を隠す樹木を置いているが一部が見える


  
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 方丈庭園(池泉回遊式)西側
立命館大学の建物は高い樹木で隠されている。  右写真は池のたもとに咲いていた
芙蓉 フヨウ アオイ科 フヨウ属 
庭と芙蓉の花の写真及び説明版をクリックすると拡大

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 方丈庭園(池泉回遊式)西側


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 方丈庭園(池泉回遊式)西側
方丈北側芙蓉池 夢窓国師の作になる三大名園の一つ。写真クリックで説明版


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院
裏参道に立てば立命館大学越しに衣笠山を望む



京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 夢想国師作 心字池方丈庭園東側

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 夢想国師作
心字池方丈庭園東側   
写真クリックで拡大


 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 夢想国師作 心字池方丈庭園東側


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 心字池のある方丈庭園東側

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 心字池のある方丈庭園東側


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院
心字池のある方丈庭園東側

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 心字池のある方丈庭園東側

 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 


京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 
茶室清漣亭(せいれんてい)


 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院  茶室清漣亭(せいれんてい)

 

京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院
茶室清漣亭(せいれんてい)前にある風変わりな等持院形灯篭


 
京都市北区にて(8月) 臨済宗天竜寺派 万年山等持院 境内

香川県小豆島の俳人 赤松柳史の句碑       赤松柳史の高弟 青山柳為の句碑
  「煩悩はたえず 南瓜を両断す」        「芙蓉池に風あるやなし 落花舞ふ」


  
京都市北区万年山等持院にて(3月) 映画監督マキノ省三の像 クリックで拡大


廣隆
臨済宗 相国寺派
萬年山
真如寺
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足利尊氏の葬儀を行った寺。尊氏の埋葬地等持院
の東側に建つ。宝鏡寺歴代の菩提所。相国寺の山外塔頭寺院。
贔屓像がある。
金閣寺、銀閣寺とともに相国寺の山外塔頭寺院の一つ。開山は仏光国師。本尊は宝冠釈迦如来。
宝鏡寺門跡花屋尼は、無外如大尼の深縁を慕い、1576年当寺に埋葬され、以後宝鏡寺歴代の菩提所となる。
1656年後水尾天皇の第五皇女で宝鏡寺門跡第二十世の理昌尼が没したとき、法堂などが後水尾天皇により

再興された。作庭でも知られる夢窓国師は真如寺第2世住職である。龍が生んだ神獣贔屓像がある。


京都市北区万年山真如寺にて(3月) 法堂「大雄殿」 クリックで拡大

 
京都市北区万年山真如寺にて(3月) 南門(正面)と参道を経て総門(内側) 真如寺別ネット  クリックで拡大

   
京都市北区万年山真如寺にて(3月) 法堂「大雄殿」と七重の石塔 右は真如寺駒札 クリックで拡大


京都市北区万年山真如寺にて(3月) 京の冬の旅特別公開案内板 クリックで拡大

  
京都市北区万年山真如寺にて(3月) 総門への参道(北に向かう) 杜若の池 クリックで拡大

 
京都市北区万年山真如寺にて(3月) 総門から南門への参道 客殿 半僧坊大権現社 
クリックで拡大

 
京都市北区万年山真如寺にて(3月) 客殿(クリックでネットの夏の写真)と玄関 クリックで拡大 

  
京都市北区万年山真如寺にて(3月) 原在中作客殿(方丈)の襖絵「西湖図」 客殿(方丈)前庭園 クリックで拡大 

 
京都市北区万年山真如寺にて(3月) 客殿(方丈)前庭園 クリックで拡大 

 
京都市北区万年山真如寺にて(3月) 客殿奥の庭園 クリックで拡大 



廣隆
真言宗 御室派
蜂岡山
廣隆寺
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平安京を築いた秦氏の菩提寺

歴代天皇即位式の御束帯を太子がまとう

本堂の聖徳太子木像に、歴代天皇の即位式に着用された御束帯あらたえ
天皇一代を通して着せられている。現在は今上・平成天皇の御束帯を着用。
例年11月22日に厨子が開扉され太子像が遥拝できる。京都で最古の寺院



秦氏創建の廣隆寺南大門(仁王門) 京都で最古の寺院


写真の左奥に霊宝殿 右は上宮王院太子殿(本堂)この中に歴代天皇が
即位式に着られた麁服「
あらたえが聖徳太子像に着せてある
毎年11月22日に太子像の逗子が開扉される



京都市太秦廣隆寺にて(11月)霊宝殿前の庭

霊宝殿に国宝第一号の
「弥勒菩薩半跏思惟像」が鎮座(
写真右
廣隆寺霊宝殿前の庭
霊宝殿に「弥勒菩薩半跏思惟像」のほか
聖徳太子像、秦川勝夫妻像もある

国宝第一号
弥勒菩薩
半跏思惟像

太秦廣隆寺にて(11月) 本堂(上宮王院太子殿)
毎年11月22日御開扉
写真クリックで説明板

京都市太秦廣隆寺にて(11月)
講堂

京都市太秦廣隆寺にて(11月)霊宝殿へ 

京都市太秦廣隆寺にて(11月) 講堂 

京都市太秦廣隆寺庫裏門

    

京都市太秦廣隆寺にて(11月)
秦河勝を祀る太秦(うずまさ)社  

京都市太秦廣隆寺にて(11月)
上宮王院太子殿内部 厨子に聖徳太子像が安置

太子殿の木像に、歴代天皇の即位式に
着用された御束帯(あらたえ)が天皇一代を
通して着せられている。例年11月22日に
開扉され聖徳太子像が遥拝できる。


西本願
世界遺産 浄土真宗 本願寺派本山
龍谷山本願寺(西本願寺)
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鸞の末娘覚信尼が文永9年(1272)に京都大谷に廟堂を造ったのが本願寺の始まり。
大谷廟堂は覚信尼の孫覚如の時代に本願寺と呼ばれた。後に比叡山と対立し、本願寺は
寛正6年
(1465)に消失。文明10年(1478)に山科に本願寺が再建されたが、天文元年(1532)に
焼かれ、大坂城付近に移り、石山本願寺と称した。石山本願寺を 本拠として11代顕如は織田
信長と11年に及ぶ合戦ののち元亀元年(1570)に敗れ、和歌山の鷺森、和泉貝塚、大坂天満と
転々とした。天正19年(1591)に秀吉から現在地を貰い、翌年に御影堂が完成した
参考-1
この頃、約400年前、真宗は東西に分裂し、現在10派に分かれている。(参考-2
境内図


京都市西本願寺にて(1月) 世界遺産浄土真宗本願寺派本山龍谷山本願寺 阿弥陀堂門
手前の欄干は堀川(国道1号線に沿って流れる。この時期は水は無かった)にかかる


 
京都市西本願寺にて(1月) 世界遺産浄土真宗本願寺派本山龍谷山本願寺 御影堂門


京都市西本願寺にて(1月) 浄土真宗本願寺派本山龍谷山本願寺 本堂阿弥陀堂(重文)


京都市西本願寺にて(1月) 安穏殿・ブックセンター

京都市西本願寺にて(1月) 大銀杏と安穏殿

 
京都市西本願寺にて(1月) 手水舎 右写真は水を吐く龍


京都市西本願寺にて(1月) 龍谷山本願寺 阿弥陀堂門 お茶所 御影堂 西本願寺境内図



京都市西本願寺にて(1月) 経蔵

京都市西本願寺にて(1月) 太鼓楼


京都市西本願寺にて(1月) 浄土真宗本願寺派本山龍谷山本願寺 阿弥陀堂(重文)


京都市西本願寺にて(1月) 北小路門

京都市西本願寺にて(1月) 聞法会館(信徒宿泊施設)


京都市西本願寺にて(1月) 本願寺派本山龍谷山本願寺 御影堂(重文)(興正寺より)

 
京都市西本願寺にて(1月) 大玄関門(左写真は内側 右写真は表側)


京都市西本願寺にて(1月) 大玄関


京都市西本願寺にて(1月) 書院南門

京都市西本願寺にて(1月) 書院玄関

 

京都市西本願寺にて(1月)
唐門(国宝)
写真上左は唐門内側

写真上右は唐門表側

 
京都市西本願寺にて(1月) 飛雲閣(国宝) 右写真は興正寺より南面を見る。 金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。
秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい)の迎賓館の一部で、三層からなる楼閣建築(本願寺HPより) 見学には前日までの予約が必要


 
京都市西本願寺にて(1月) 国宝飛雲閣(本願寺パンフレットと本願寺HPより)

 
京都市西本願寺にて(1月) 浄土真宗本願寺派本山龍谷山本願寺 伝道院
総門の東すぐ)
京都の近代建築のページへ 設計者は伊東忠太1  伊東忠太2


京都市西本願寺にて(1月) 鐘楼

京都市西本願寺にて(1月) 竜虎殿

 
京都市西本願寺にて(1月) 浄土真宗本願寺派本山龍谷山本願寺 宗務総合庁舎(東入口、北入口)

 
京都市西本願寺にて(1月) 写真左は総門で門前町へ続く 写真右は龍谷大学前の南向きの門

本願寺の東西分離について
信長は大阪城付近の石山本願寺を10年にわた攻め、1580年、宗主顕如上人と石山本願寺の明け渡し和議を結んだが、
顕如上人の長男
教如上人は徹底抗戦し4ヵ月後に敗れた。この姿勢の違いが、本願寺東西分派の要因となった。その後
秀吉は1591年京都に土地を寄進し、本願寺(現西本願寺)を大阪より移転させた。翌年、顕如上人が亡くなると顕如派と
教如派の対立が表面化し、秀吉は長男の教如上人を隠居させ、顕如上人の三男准如上人に継がせた。秀吉没後、
教如上人は
家康に接近。1602年、京都に寺地の寄進を受け、教如上人が東本願寺(大谷派)を建立した。
現在、真宗には浄土真宗本願寺派、
真宗大谷派の他に真宗高田派、真宗仏光寺派、真宗興正派、
真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派がある
参考-2


京都市西本願寺にて(1月) 浄土真宗本願寺派 本願寺 龍谷総合学園 龍谷大学本部(重文)
京都の近代建築のページへ


東本願
浄土真宗 真宗大谷派本山
東本願寺
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大坂石山本願寺退去時の見解の相違等をめぐる父子の対立状況が主因となり、1602年、
顕如の長男である教如が、秀吉から与えられた顕如の本願寺(西)のすぐ東に家康から土地を
与えられ本願寺(東)を分立した。当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如を
十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)とに分裂した。



京都市下京区浄土真宗大谷派本山東本願寺にて(2月) 御影堂


京都市下京区東本願寺にて(2月) 阿弥陀門内側

京都市下京区東本願寺にて(2月) 御影堂門前


京都市下京区浄土真宗大谷派本山東本願寺にて(2月) 御影堂門


京都市下京区東本願寺寺にて(2月) 玄関門

京都市下京区東本願寺にて(2月) 手水舎の龍

京都市下京区東本願寺にて(2月) 阿弥陀門正面

京都市下京区東本願寺にて(2月) 玄関門の南の門


京都市下京区浄土真宗大谷派本山東本願寺にて(2月) 御影堂門


京都市下京区東本願寺にて(2月) 大寝殿
手前の円形の地下3階に視聴覚ホール

京都市下京区東本願寺にて(2月) 大玄関
  


京都市下京区浄土真宗大谷派本山東本願寺にて(2月) 参拝接待所 
東本願寺境内図


京都市下京区東本願寺にて(2月) 御影堂門

京都市下京区東本願寺にて(2月) 宗務所

京都市下京区東本願寺にて(2月) 出版所

京都市下京区東本願寺にて(2月) 鐘楼

 
京都市下京区東本願寺渉成園(枳殻邸)にて(2月) 正門から庭園へ

 
京都市下京区浄土真宗大谷派本山東本願寺渉成園(枳殻邸)にて(2月) 
写真クリックで拡大
回棹廊(かいとうろう) 庭園地図 
成園のページへ


京都市下京区東本願寺枳殻邸にて(2月)
侵雪橋たもとの碧玉の石どう

京都市下京区東本願寺渉成園(枳殻邸)にて(2月)
侵雪橋(しんせつきょう)

京都市下京区東本願寺渉成園(枳殻邸)にて(2月)
大谷家正門

京都市下京区東本願寺渉成園(枳殻邸)にて(2月)
傍花閣(ぼうかかく)


京都市下京区東本願寺渉成園(枳殻邸)にて(2月) 漱沈居(そうちんきょ) 右は小滝・獅子吼


京都市下京区にて(2月) 数珠屋町通り
渉成園(枳殻邸)
より東本願寺方面へ

京都市下京区渉成園(枳殻邸)にて(2月)
渉成園北出入口
 左の建屋は大谷家


興正
浄土真宗 真宗興正派本山
円頓山興正寺
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興正寺は親鸞聖人を開祖とする真宗興正派の本山で、寺号は日本に仏教をひろめた聖徳太子の
事績にちなみ「正しい法を興しさかえさす」との意味である。
鎌倉時代に山科に建立されたが、
創建後数年を経て山科から京都東山へと移った。その際、ご本尊が光を放ったことから、後醍醐天皇
より佛光寺の寺号を賜った。佛光寺の教勢は拡大し隆盛を極めたが、室町時代、蓮教上人は本願寺
の蓮如上人と共に歩み、佛光寺を弟に譲り、再び山科に興正寺を興した。その後、数度の移転
にも常に本願寺と行動を共にし、桃山時代、現在の地へ移転した。堂舎が隣接している
のも本願寺との深い関係を示しているが、明治9年、興正寺は独立し本山となった。



京都市にて(1月) 浄土真宗 真宗興正寺派 円頓山興正寺 御影堂


京都市浄土真宗 興正寺にて(1月) 阿弥陀堂

京都市浄土真宗 興正寺にて(1月) 鐘楼


京都市にて(1月) 浄土真宗 真宗興正寺派 円頓山興正寺 三門
写真クリックで三門内側に変わります


京都市 興正寺にて(1月) 御影堂と阿弥陀堂

京都市 興正寺にて(1月) 経蔵


京都市にて(1月) 浄土真宗 真宗興正寺派 円頓山興正寺 阿弥陀門
写真クリックで阿弥陀門内側に変わります


京都市 下京区 興正寺
(こうしょうじ)三門
本願寺の南に隣接


京都市 東山区 興正寺霊前本廟
東山にある 地図 (TM氏)
 
京都市にて(1月) 円頓山興正寺 三門と阿弥陀門(内側)



平等
真言宗 智山派
福聚山平等寺

(因幡薬師)

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因幡から主のもとに飛んで来た天竺の
薬師如来と平家物語・悲恋の小督局の琴がある寺

平等寺は平家物語にある、小督局(こごうのつぼね)の悲恋物語と、能狂言「因幡堂」の舞台
である。高倉天皇の寵愛を娘の中宮建礼門院徳子以上に受けていた小督に不満を持った平清盛は、
小督を出家させた。この寺に小督が使っていた箏、毛髪を織り込んだ光明真言、硯等の寺宝がある。
小督の嵐山の史跡へ



京都市下京区福聚山平等寺・因幡薬師にて(2月) 本堂 
クリックで説明板

 
京都市下京区福聚山平等寺因幡薬師にて(2月) 本堂  右写真は薬師如来(重文)の管理棟
薬師如来立像(重文)の伝説
因幡国司少将橘行平が長徳3年(997)、病気になったが、夢枕で僧が「浦に流れついた木を引き上げよ」
と言う。引き上げると薬師如来像で、お祀りした。すると病は癒え、京に帰ることができた。この薬師は天竺の仏で
あった。行平は先に京に帰ったが、長保5年(1003)、薬師像が因幡から行平を追って虚空を飛んできたという。

 
京都市下京区福聚山平等寺因幡薬師にて(2月) 参道


京都市下京区福聚山平等寺・因幡薬師にて(2月) 本堂

 
京都市下京区福聚山平等寺因幡薬師にて(2月) 本堂周辺の市(毎月8日)

 
京都市下京区福聚山平等寺・因幡薬師にて(2月) 「空」の像と「びんずる尊者」の像

 
京都市下京区福聚山平等寺・因幡薬師にて(2月) 寺務所 
クリックで寺の縁起板拡大

 
京都市下京区福聚山平等寺因幡薬師にて(2月) 本堂と右は観音堂


京都市因幡薬師にて(2月)


長講
西山浄土宗
法華長講弥陀三昧堂
長講堂

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平家物語ゆかりの後白川法皇の仙洞御所
本寺は後白河法皇が六条西洞院殿の平業忠の邸に営まれた仙洞御所で、正式に法華長講弥陀三昧堂
と云う。法華経を永遠に讃し、阿弥陀仏を念じて三昧境に入る道場の意。この持仏堂は、僧坊も付属する
本格的な寺院で、法皇は多くの所領を寄進し、これが有名な長講堂領である。後に、秀吉の命により
現地に移転。本尊阿弥陀如来及両脇侍像と御影堂の後白河法皇木像は重要文化財である。



京都市下京区にて(2月) 元六条御所西山浄土宗 長講堂・法華長講弥陀三昧堂山門

 
京都市下京区にて(2月) 元六条御所長講堂


京都市下京区にて(2月) 元六条御所長講堂


京都市下京区にて(2月) 元六条御所長講堂

京都市下京区にて(2月) 後白河法皇像(重文)


京都市下京区にて(2月) 元六条御所長講堂 書院庭園


京都市下京区元六条御所長講堂にて(2月)

京都市下京区にて(2月) 長講堂 後白川法皇御影殿

京都市下京区長講堂にて(2月) 本堂

京都市下京区長講堂にて(2月) 後白川法皇御影殿
後白河法皇自らが縁者の名を書き入れたという過去現在牒には、平家物語巻第一祗王に書かれている、
白拍子の「閉(とじ)、妓王、妓女、佛御前」の名前のほか、源義経(義行)の名があった。 参考


延寿
西山浄土宗
延寿寺
(金佛殿)

延寿寺(えんじゅじ)は、長講堂と同じく後白河上皇が、院御所
「六条西洞院殿」に営まれた仏堂が由来の寺院で、長講堂の東に隣接す

 
京都市下京区にて(2月) 延寿寺本堂(写真内左遠方に長講堂)と写真右は山門


紫雲山

台宗
紫雲山頂法寺

(六角堂)


聖徳太子創建の寺 池坊華道発祥の地
京の中心へその寺 西国十八番札所

聖徳太子は物部と争い、勝てば四天王寺を建立すると護持仏の如意輪観音に誓った。勝利
した太子が大阪四天王寺建立のための用材を求めて来られたとき、傍の木に護持仏をかけて
沐浴をされたが、護持仏が木から離れず「太子の本尊となって7世が過ぎた、今後ここで衆生
を済う」とのお告げがあった。太子は近くの紫雲たなびく霊木六角堂を建てて護持仏を
安置された。華道の発祥地でもあり、池坊の池はこの太子沐浴の池という。



京都市中京区天台宗紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) 本堂 クリックで駒札


京都市頂法寺六角堂にて(2月) 本堂 クリックで拡大



京都市中京区天台宗紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) 本堂(隣接ビルより)

 
京都市紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) 本堂


京都市紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) 

京都市紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) 手水舎

京都市紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) 太子堂
太子が沐浴したという池の上に立つ

京都市紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) 
十六羅漢像 後方は華道池坊の施設

京都市紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) へそ石
写真クリックで駒札が出ます

京都市紫雲山頂法寺六角堂にて(2月) 納経所
西国第十八番観音霊場

  
六角堂の駒札(左から六角堂由緒、六角堂、へそ石)は
クリックで拡大します。





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