[仏 閣] 中項目・目次           HPのトップ
 1.滋賀・和歌山 2.中国・四国 3.中部・北陸・東日本 4.京都 5.奈良 6.大阪 7.兵庫

4.京都 4-1 市内(東) 4-2 市内(中)  4-2 市内(西) 4-3 京都府下  観音寺 栁谷観音 光明寺 寂照院 長法寺 乙訓寺 勝竜寺 
宝積寺 神應寺 妙喜菴 浄瑠璃寺 
岩船寺 一休寺 西念寺 蟹満寺 三室戸寺 天寧寺 明覚寺
万福寺
 穴太寺 平等院 興聖寺 靖国寺 成相寺 松尾寺
 智恩寺

4-3 京都府下 (京都市外)
高野山
福知山市 高野山真言宗
補陀洛山観音寺

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天竺の法道仙人が開基という古刹
関西花の寺第1番 丹波あじさい寺

養老4年(720)、法道仙人が本尊十一面千手観音菩薩を刻み草堂に安置したのに始まり、その後応和元年(961)、
空也により七堂伽藍が建立されたと伝わる。鎌倉時代には北条時頼・貞時らの庇護を受け、25余坊の寺坊が軒を並べる寺院
として栄えた。しかし、天正4年(1576)、明智光秀の焼き討ちで焼失した。江戸中期の天明4年(1784)には大聖院・多聞院・
本堂が再建され、明治時代に補陀洛山觀音寺として統合された。現在、関西花の寺・あじさい寺として知られている。
本尊は十一面千手千眼観世音菩薩(通称 霊仏観世音菩薩) 当院ホームページより



福知山市にて(6月) 関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 仁王門
山門写真をクリックすると山門の内側がでます あじさい寺

 
福知山市にて(6月) 高野山真言宗補陀洛山観音寺 関西花の寺二十五霊場第1番 仁王門の仁王(左右)


福知山市にて(6月)関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 参道


福知山市にて(6月) 関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 本堂 
本尊は十一面千手千眼観世音菩薩 本尊説明板へ  
写真クリックで説明板

 
福知山市にて(6月) 関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 鐘楼と手水舎



福知山市にて(6月)関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 表門
クリックで表門を拡大

 
福知山市にて(6月)関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 大聖院
写真クリックで表門を拡大


福知山市にて(6月) 関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 山門

 
福知山市にて(6月) 関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 山門内側 右写真は山門前参道


 
福知山市にて(6月) 関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 七観音霊場-1

 
福知山市にて(6月) 関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 七観音霊場-2

 
福知山市にて(6月) 関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺 七観音霊場-3

 
福知山市にて(6月) 高野山真言宗補陀洛山観音寺 七観音霊場-4

 
福知山市にて(6月) 高野山真言宗 補陀洛山観音寺 弁財天 写真右は成田山不動尊

 
福知山市にて(6月) 高野山真言宗補陀洛山観音寺 閼伽井 写真右は水子堂(本堂左)


福知山市にて(6月) 高野山真言宗補陀洛山観音寺 大聖院境内
左建物は大聖院、右奥は表門、右手前建物は客殿(茶室)

 
福知山市にて(6月) 高野山真言宗補陀洛山観音寺 境内 左写真をクリックするとネットの慈母観音像が出ます

 
福知山市関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺にて(6月)アジサイ アジサイ科 アジサイ属


 
福知山市関西花の寺二十五霊場第1番 高野山真言宗補陀洛山観音寺にて(6月)アジサイ アジサイ科 アジサイ属

八体仏 守護仏
方位・生まれ年を守護するという
写真左から
子-千手観音、丑・寅-虚空蔵菩薩
卯-文殊菩薩、辰・巳-普賢菩薩
午-勢至菩薩、未・申-大日如来
酉-不動明王、戌・亥-阿弥陀如来

夫々御真言を唱えてお参りする


写真クリックで拡大すると十二支
仏名、御真言が少し読めます


福知山市関西花の寺二十五霊場
第1番 高野山真言宗 補陀洛山
観音寺
にて(6月)


 
福知山市高野山真言宗 補陀洛山観音寺にて(6月)熊野神社 (本堂の左後の奥にある)


西山
長岡京市 西山浄土宗
立願山楊谷寺
(柳谷観音)

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京都西山三山
眼病平癒の独鈷水(おこうずい)の寺
近年は紫陽花の寺。創建1200年の古刹

京都清水寺開創の開祖延鎮が大同元年(806)に開山。延鎮が夢で京都西山で観音菩薩を仰ぐことができる
とのお告げを受け、十一面千手千眼観世音菩薩像を感得し、ここに堂宇を建て安置したのが始まり。その後
弘法大師が度々、ここで修行をした。その際に猿が目をここの湧き水で洗っているのを見た空海が
眼病平癒の独鈷水(おこうずい)として世に広めた。京都西山三山の一つ。


長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 本堂 本尊は十一面千手千眼観音(秘仏) クリックで駒札

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 阿弥陀堂 右はびんずる尊者(珍しく本堂内に安置)


長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 参道

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 参道 右は京都西山三山(楊谷寺、光明寺、善峯寺)の案内板


 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 経堂(奥) 護摩堂(手前) 地蔵堂(右奥) 右写真は参道脇の園

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 山門横の不動尊像と観音像(クリックで拡大


 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 山門(内側) 寺院駒札はクリックで拡大


長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 寺院の甍(中央正面が本堂)

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 山門前石段

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 弁財天  右は多宝塔(石塔)

 
楊谷寺柳谷観音にて(7月) 本堂裏の正一位眼力大明神 
駒札はクリックで拡大

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月)独鈷水堂脇の空海像  右は独鈷水堂


長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 上書院と浄土苑庭園 クリックでHPの庭園へ


長岡京市楊谷寺柳谷観音HPより 上書院と浄土苑庭園

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 裏庭  右は夢生菴<生年不詳>歌碑(
クリック拡大
 「見えぬ目の わがうつせみを みほとけの み手にすがりて 明るく生きむ

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 奥ノ院

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 奥ノ院眼力稲荷  写真右は鐘楼


 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 愛染堂  右は納骨堂

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) 神得水(
クリック拡大)   右は手水舎

 
長岡京市楊谷寺柳谷観音にて(7月) シチダンカ 右はブルースカイ(ブルーメーズ) アジサイ科 アジサイ属


長岡京市楊谷寺にて(7月) 柳谷観音より東方面を展望


西山浄土宗
長岡京市 西山浄土宗総本山
報国山念仏三昧院

光明寺
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法然上人が初めて南無阿弥陀仏の教えを説かれ
法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた場所
昭和天皇(
大正7年皇太子殿下の時)が行啓された名刹

法然を慕い帰依した弟子の蓮生・熊谷直実が、建久9年(1198)に、念仏三昧堂を建立した。
後にここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が
発せられたことを聞いて、四条天皇は寺名に光明寺の勅額を与えたという。



京都府長岡京市にて(5月) 西山浄土宗総本山報国山念仏三昧院 光明寺 総門

 
 京都府長岡京市にて(5月) 西山浄土宗総本山光明寺 参道 浄土門根元地碑 境内図 


京都府長岡京市にて(5月) 西山浄土宗総本山光明寺 御影堂 御影堂内部


京都府長岡京市にて(5月) 西山浄土宗総本山光明寺 表参道女坂


 
京都府長岡京市にて(5月) 西山浄土宗総本山光明寺 参道


長岡京市にて(5月) 総本山光明寺 参道(惣門方向を振り返る)


長岡京市にて(5月) 西山浄土宗総本山光明寺 阿弥陀堂

 
京都府長岡京市光明寺にて(5月) 法然上人立教開宗の像
クリックで拡大) 写真右は法然上人袈裟掛の松と経蔵

 
京都府長岡京市光明寺にて(5月) 円光大師(法然上人)火葬場跡と光明を発したという伝説の石棺


京都府長岡京市光明寺にて(5月) 勅使門

 
京都府長岡京市光明寺にて(5月) 鐘楼

 
京都府長岡京市光明寺にて(5月) 観音堂と閻魔堂

 
京都府長岡京市西山浄土宗総本山光明寺にて(5月) 開基熊谷直実の蓮生閣(前方奥)と勢至堂

 
長岡京市にて(5月) 西山浄土宗総本山光明寺 庫裏 右写真は本玄関と釈迦堂

 
長岡京市にて(5月) 西山浄土宗総本山光明寺 専門寮 衆寮門と講堂

 
京都府長岡京市光明寺にて(5月) 講堂前庭園 右は信徒会館

 
京都府長岡京市光明寺にて(5月) 塔頭

 
京都府長岡京市西山浄土宗総本山光明寺にて(5月) 東行逆馬の碑 熊谷直実参考
写真クリックで碑文と熊谷直実の絵が出ます

京都府長岡京市西山浄土宗総本山
光明寺にて(5月)

西山浄土宗宗歌
流祖西山上人御詠
古関裕而作曲
生きて芽を
蓮の上に宿さずば
念仏申す甲斐やなからん




京都府長岡京市光明寺にて(5月) 句碑
塩田紅果<生没年不詳>

うつし世の 楽土静けし 花に鳥


真言宗系単立
長岡京市 真言宗系単立
木上山海印寺

寂照院
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孟宗竹発祥の地
花山天皇の祈願所海印寺の唯一現存の塔頭
応仁の乱の戦火はここにも及んだ
寂照院は海印寺十院(塔頭)の一つである。9世紀初頭、東大寺の僧道雄が嵯峨天皇の
祈願所として、華厳経にもとづく海印三昧の修行道場を創建した。海印寺は十院をもつ大寺院
であったが、平安末期には衰退。その後摂関家の祈祷所として寄進された。応仁の兵火で寂照院を残して
焼亡。織田信長が宿泊した記録もある。エジソンも注目した京都の孟宗竹はここから始まった。
説明板1説明板2より 参照世界大百科事典 第2版


長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 山門

  
長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 山門仁王(14世紀の製作)
仁王像、説明板のクリックで拡大


長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 本堂


長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 本堂 本尊は千手観音坐像

 
長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 本堂 
説明板クリックで拡大


長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 本堂階下(本堂は2階構造となっている)


 
長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 地蔵像

 
長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 地蔵像  右は山門内側

 
長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 地蔵像 通用門

  
長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 ペット供養堂 右はの本孟宗竹発祥の地碑(クリックで拡大
平成24年2月21日長岡京市教育委員会における事務局説明要約; 京都大学の故上田先生は日本の孟宗竹の発祥地は、
鹿児島と奥海印寺寂照院の二カ所である。この度、京都府の記念物担当者が調査し、孟宗竹の発祥地として天然記念物の指定を
京都府文化財保護審議会で決定し、3月中に府の指定となる見通し。場所は寂照院本堂北東の境内の竹藪約500㎡である。



長岡京市にて(9月) 木上山海印寺寂照院 孟宗竹発祥の地の竹林 京都府天然記念物

 
長岡京市寂照院にて(9月)走田9号墳(海印寺古墳) 7世紀初頭に造影された古墳 
直径12m 高さ3.5mの円墳、近くに大原古墳群、稲荷山古墳群がある
(平成7年に寂照院本堂再建時に発見)
クリックで説明文拡大


長岡京市寂照院にて(9月)走田9号墳(海印寺古墳)クリックで拡大


長岡京市寂照院にて(9月)本堂から西部を展望


長岡京市寂照院にて(9月)本堂から西南部を展望

 
長岡京市にて(9月)西山浄土宗 大見山 聖徳寺 (寂照院の近く)


長岡京市にて(9月)寂照院の北の塀越しに走田神社の鳥居
奥海印寺と長法寺の産土神(うぶすながみ)



天台宗
長岡京市 天台宗
長法寺

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天台宗寺門派三井寺の開祖智證大師の弟子、
千観上人が開基。 天台宗山門派延暦寺の末寺

天台宗延暦寺の末寺で、延喜10年(910)三井寺の開祖智證大師の弟子、千観上人が開基。千観上人が
諸国を巡歴の途中、観世音菩薩が夢にあらわれ、「この地に留まってお寺を建てよ」とのお告げがあり、
それに従ってお堂を建てたのが長法寺の起こりと伝えられている。
長岡京市HPより)

 
長岡市にて(9月) 天台宗長法寺 本殿 写真右は寺名碑

 
長岡市にて(9月) 天台宗長法寺 本殿と観音像 
写真クリックで拡大
本尊は十一面観世音菩薩


長岡市にて(9月) 天台宗長法寺 本殿 本尊は十一面観世音菩薩 
写真クリックで寺院の説明板

 
長岡市にて(9月) 天台宗長法寺 本殿横の白山権現

 
長岡市にて(9月) 天台宗長法寺 放生池   
右の説明板はクリックで拡大

 
長岡市にて(9月) 天台宗長法寺 参道  手水


長岡市にて(9月) 天台宗長法寺 地蔵尊


真言宗豊
長岡京市 真言宗豊山派
大慈山乙訓寺

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聖徳太子の創建、奈良長谷寺に連なる古刹
古都・長岡京の鎮めの寺院、牡丹寺で知られる

「兄国」にあたる葛野(かどの)郡から分離した新しい郡を、「弟国」(乙訓)と呼び、日本書紀によれば、ここに第26代
継体天皇は都を移された。その当時の宮跡が後に乙訓寺となったと云う。乙訓寺は太秦の広隆寺(603年創建)とほぼ同じ、
約1380年前の創建と見られ、寺伝では推古天皇勅願、聖徳太子創建となっている。延暦3年(784)、都は奈良から
長岡京に移り、乙訓寺は都の鎮めとして重要視された。
長谷寺より移植した牡丹で知られる。


長岡京市にて(10月) 真言宗豊山派大慈山乙訓寺 表門 クリックで説明文  寺院説明その1 寺院説明その2

   
長岡京市にて(10月) 真言宗豊山派大慈山乙訓寺 鐘楼と境内の牡丹(
説明板他クリックで拡大

 
真言宗豊山派大慈山乙訓寺の牡丹の盛り(寺院HPより) 右は10月の牡丹の参道  夫々クリックで拡大


長岡京市にて(10月) 真言宗豊山派大慈山乙訓寺 本堂(写真クリックで説明文

 
長岡京市にて(10月) 真言宗豊山派大慈山乙訓寺 本堂 左写真はびんずる尊者(クリックで拡大

 
長岡京市乙訓寺にて(10月) 寺院説明駒札 クリックで拡大


長岡京市にて(10月) 真言宗豊山派大慈山乙訓寺 早良親王(さわらしんのう)供養塔
長岡京遷都の翌年、建都の長官・藤原種継が暗殺された。その暗殺団と交流のあった桓武天皇の実弟・早良親王
が捕らえられ、乙訓寺に監禁された。親王は断食をして身の潔白を訴えられたが、淡路島に流罪となった。その護送途中、
淀川べりで絶命したが、そのまま淡路に送られ葬られた。その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、悪疫の流行、
天変地異が発生した。朝廷は事件15年後に早良親王を復権、崇道天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなど措置を講じた。
今、全国にある「御陵(ごりょう)神社」」「春秋の彼岸行事」も早良親王の怨霊鎮めが元になっている。
また弘法大師の乙訓寺別当就任は「宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待した」という。


長岡京市にて(10月) 真言宗豊山派大慈山乙訓寺 毘沙門堂
平安時代後期の木造毘沙門天立像は国の重文


長岡京市乙訓寺にて(10月) 鎮守八幡社 
クリックで説明板

 

長岡京市大慈山乙訓寺にて(10月) 観音像と空海像

 
長岡京市大慈山乙訓寺にて(10月) 塔婆と石塔

 
長岡京市大慈山乙訓寺にて(10月) 稚児大師

   
長岡京市大慈山乙訓寺にて(10月) 左からモチノキ モチノキ科 モチノキ属
菩提樹の実 シナノキ科 シナノキ属 柑橘 ミカン科 ミカン属 酔芙蓉
 アオイ科 フヨウ属 夫々画像クリックで拡大


長岡京市大慈山乙訓寺にて(10月) 裏門 向こう正面が鎮守八幡社


真言三宝宗
長岡京市 真言三宝宗
恵解山勝竜寺

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長岡京より以前からあった古刹
梵鐘により能勢の真如寺と縁がある

1200年余の昔、空海により留学地唐の青龍寺の名で創建したが、その後の雨乞いなどの霊験あらたかにより
勝竜寺と改名された。ご本尊は十一面観音菩薩(重文) その後、約700年前に作られた初代梵鐘は大阪夏の陣で
紛失し、能勢氏によって大阪府能勢町真如寺にもたらされ、真如寺の鐘楼にある。梵鐘は大阪府指定文化財。


長岡京市にて(10月) 真言三宝宗恵解山勝竜寺 正面参道 右は春日神社

 
長岡京市にて(10月) 真言三宝宗恵解山勝竜寺 本堂 本尊は十一面観音菩薩(重文) クリックで寺院説明板


長岡京市にて(10月) 真言三宝宗恵解山勝竜寺 本堂

 
長岡京市にて(10月) 真言三宝宗恵解山勝竜寺 本堂脇のびんずる尊者

 
長岡京市にて(10月) 真言三宝宗恵解山勝竜寺 空海像とぼけ封じ観世音菩薩


長岡京市勝竜寺にて(10月) 由緒ある梵鐘 クリックで説明文
初代梵鐘は大阪夏の陣で持ち去れれ、後に大阪府能勢町の真如寺に
ある。大阪府指定文化財。真如時の梵鐘に乙訓郡勝竜寺と刻まれている

 
長岡京市にて(10月) 勝竜寺横の村社春日神社 


智山派
大山崎町 真言宗智山派
天王山宝積寺
(寳寺)
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聖武天皇の勅命で行基が開祖したという古刹
打出と小槌を祀る寳の寺。一寸法師の逸話の寺といわれる
明智追討軍秀吉の本陣ともなった
聖武天皇が夢で竜神から授けられた「打出」と「小槌」を祀ることから「宝寺」の別名があり、
大黒天宝寺ともいう。聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝わる。一寸法師が、京で暴れる鬼を退治
するために淀川を上り、途中山崎で下船して宝積寺で修行を重ね、その後京で見事に鬼退治を果たしたとのこと



京都府乙訓郡大山崎町にて(10月) 真言宗智山派 天王山宝積寺仁王門

 
京都府乙訓郡大山崎町にて(10月) 真言宗智山派 天王山宝積寺仁王門の仁王 鎌倉期の 木造金剛力士像( 重文)
左は密迹金剛力士(吽形) 右は那羅延金剛力士(阿形)

 

京都府乙訓郡大山崎町にて(10月) 真言宗智山派 天王山宝積寺仁王門(内側)と扁額


京都府乙訓郡大山崎町にて(10月) 真言宗智山派 宝積寺宝積寺本堂

  
京都府乙訓郡大山崎町にて(10月) 真言宗智山派 天王山宝積寺本堂 本尊 木造十一面観世音菩薩立像 ( 重文 )
右端写真は寺院パンフレット 写真クリックで十一面観音像を拡大


京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 小槌宮扁額


 
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 打出と小槌を祀る小槌宮と大黒天 一寸法師伝説

 
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 小槌宮の七福神宝船と小槌宮の前にある案内碑

 
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 閻魔堂  閻魔堂内部の閻魔の像( 重文 クリック拡大


京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月)閻魔王及び眷属像(重要文化財)(拝観券転写)
閻魔王坐像(像高160.9cm)、司録坐像(像高143.6cm)、司命坐像(像高122.4cm)、倶生神坐像(像高114.5cm)、
闇黒童子(暗黒童子)坐像(像高110.5cm)の5躯を安置する(各木造、鎌倉時代)。これらの像はもとは天王山西麓にあった
西観音寺(大阪府島本町)に安置されていたもので、明治の廃仏毀釈で西観音寺が廃寺となった後、宝積寺に移された。(参考

 
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 不動堂と不動尊像(クリックで拡大

   
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 三重塔(重文)写真中央をクリックで拡大


京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月)手水舎
龍吐水ならず亀が水を吐く亀吐水 クリック拡大

 
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月)良縁成就の梵鐘 待宵の鐘

 
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 境内の様子 写真左は小槌宮と本堂  右は小槌宮、本堂の間から閻魔堂を見る


 
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 境内の放生池と弁財天    境内の神社


京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 参道


京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 参道

 
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 坂の多い参道

  
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 寺院案内板(クリックで拡大し読めます

  
京都府大山崎町真言宗宝積寺にて(10月) 句碑と千年桜 夫々クリックで拡大


 
八幡市 洞宗
絲杉山神應寺

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明治の神仏分離まで、石清水八幡宮の神宮寺
開祖は岩清水八幡宮を創建した行教和尚。豊臣も徳川も祀られている

平安時代始め、清和天皇の貞観元年(859)、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(大分県)宇佐八幡宮にこもり
日夜熱祷を捧げ、八幡大神の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、男山の峯に
岩清水八幡宮を造営し、御神霊を遷座された。併せて、行教によって神応寺が創建された。当初は四宗(天台、真言、
法相、律)兼学の寺院であったが、室町時代に禅宗寺院となり、寺名を石清水八幡宮が宇佐神託に応じ
遷座したことにより、行教が神応寺と改名し、岩清水八幡宮と同じ応神天皇を祀る。 



京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺((しすぎさん じんのうじ)) 山門

 
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 鐘楼


京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 本堂 本尊は薬師三尊

 
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 庫裏 
クリックで拡大


京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 庫裏の前庭

 
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 160段の石段参道


 
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 聖観世音菩薩像 聖徳太子像安置
右写真は豊川枳尼真天(だきにしんてん)  
クリックで拡大

 
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 本堂前庭 右は山門内側 参考神応寺 
クリックで拡大

これより神応寺奥の院
   
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 奥の院への参道 クリックで拡大

  
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 奥の院不動明王への参道 左は男山ケーブル鉄橋の橋桁 
クリックで拡大

   
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 奥の院不動明王

  
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 奥の院不動明王

 
京都府八幡市にて(2月) 曹洞宗 絲杉山神応寺 奥の院 十一面観音 クリックで拡大  由来碑に曰く「織田家、豊臣家、
徳川家の寄進による観音堂および不動堂は、昭和10年に山津波にて倒壊したが、昭和40年に現状に復帰した」


東福寺
大山崎町 臨済宗東福寺派
妙喜菴
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千利休作唯一の現存茶室
聖観音を本尊とする臨済宗東福寺派の寺院

茶室・待庵は国宝。日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。
現在一般化している、にじり口が設けられた小間の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。寺伝には、
天正10年(1582)の山崎の戦いのおり羽柴秀吉の陣中に千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し
移築したとある。慶長11年(1606)に描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに
囲いの書き込みがありこの時にはすでに現在地に移築されていたものと考えられる。
参考

 
京都府大山崎町にて(10月) 臨済宗東福寺派豊興山妙喜菴 正面玄関と表札

 
京都府大山崎町にて(10月) 臨済宗東福寺派妙喜菴 庭園の一部

   
京都府大山崎町にて(10月) 臨済宗東福寺派妙喜菴 寺標 文化財表示 お茶栽培中説明板


真言律宗
木津川市 真言律宗
小田原山浄瑠璃寺
(九体寺)
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本堂に九体の阿弥陀如来像を安置する
九品往生思想の古刹 関西花の寺第16番

古くは西小田原寺とも呼ばれた。境内は緑深く、池を中心とした回遊式・浄土式庭園と、
平安末期の本堂と三重塔が、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に
多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。一つの堂に九体の
阿弥陀如来像を安置する発想は「九品往生」思想に由来するもの。


京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 山門 写真クリックで別拡大写真

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 参道


京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 本堂・九体阿弥陀堂(国宝) 


京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺本堂にて(5月)
子安地蔵菩薩(重文)と阿弥陀如来中尊象(国宝)
写真は浄瑠璃寺発行のパンフレットより 写真クリックで拡大



京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺本堂にて(5月) 写真クリックで拡大
西方九体阿弥陀如来象(国宝) 写真は浄瑠璃寺発行のパンフレットより


京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 三重塔(国宝)

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 鐘楼


京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 東向きに建つ本堂・九体阿弥陀堂(国宝)
堂前の板扉ごとに阿弥陀如来が安置されている

京都府木津川市
浄瑠璃寺本堂にて(5月)
写真左から
秘仏・大日如来像
秘仏・吉祥天女像(重文)
秘仏・薬師如来像(重文)

写真クリックで拡大
写真は浄瑠璃寺発行
のパンフレットより

京都府木津川市
浄瑠璃寺本堂にて(5月)
写真左
四天王像
持国天(前)(国宝)
増長天(後)(国宝)
多聞天、広目天は
国立博物館に

写真右
不動明王三尊像(重文)

写真クリックで拡大
写真は浄瑠璃寺発行
のパンフレットより

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 浄土式池泉回遊庭園と本堂(国宝)を望む

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 阿字池の浄土式池泉回遊庭園

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 本堂前の阿字池の浄土式池泉回遊庭園と三重塔(国宝)

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 本堂と阿字池の浄土式池泉回遊庭園
右は歴史街道誌「歴史の旅人」2017春号Vol90 表紙より 
クリックで拡大

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 山門(内側)と参道の境内碑

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 参道

  
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) 参道にある「そば処」

 
京都府木津川市小田原山浄瑠璃寺にて(5月) カキツバタシャガ アヤメ科 アヤメ属 


真言律宗
木津川市 真言律宗
高雄山報恩院岩船寺

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3mの大阿弥陀如来座像を本尊とする
聖武天皇の命により行基が開創した古刹

関西花の寺第15番
岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する
当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(磨崖仏)や石塔が多数残り、
寺伝によると天平元年(729)に聖武天皇の発願により行基が建立したと伝わる


京都府木津川市にて(5月) 岩船寺参道


京都府木津川市岩船寺にて(5月) 本堂 本尊は阿弥陀如来(重文)


京都府木津川市岩船寺パンフレットより(5月) 
クリックで拡大
高さ3mの本尊 阿弥陀如来座像(重文)と四天王立像(府指定文化財)

 
京都府木津川市岩船寺にて(5月) 山門(左)と山門内側(右)


京都府木津川市岩船寺にて(5月) 三重塔(重文)

 
京都府木津川市岩船寺にて(5月) 開山堂



京都府木津川市岩船寺にて(5月) 阿字池越しの本堂

 
京都府木津川市岩船寺にて(5月) 白山神社からの本堂
 右は石室不動明王立像(重文)


京都府木津川市岩船寺にて(5月) 本堂 本尊は阿弥陀如来(重文)


京都府木津川市岩船寺にて(5月) 三重塔(重文)
写真右は岩船寺パンフレットより 本堂の十一面観音像と普賢菩薩騎象像(重文)

 
京都府木津川市岩船寺にて(5月) 庫裏


 
京都府木津川市岩船寺にて(5月) 五輪塔(重文)と十三重石塔(重文)


京都府木津川市岩船寺にて(5月) 鐘楼

京都府木津川市岩船寺にて(5月) 観音像

 
京都府木津川市岩船寺寺にて(5月) 地蔵堂



京都府木津川市岩船寺にて(5月) 白山神社(左)と春日神社(右)
岩船寺建立に当っての鎮守社

 
京都府木津川市岩船寺にて(5月) 白山神社(左)と春日神社(右)

 
京都府木津川市岩船寺にて(5月) 蹲(左)と石風呂(右)

関西花の寺第15番の古刹は花が多い

 
京都府木津川市 関西花の寺第15番岩船寺にて(5月)
写真左は赤枝垂の別称の手向山楓 カエデ科 カエデ属 写真右は牡丹 ボタン科 ボタン属


 
木津川市岩船寺にて(5月) 左はスズラン ユリ科 スズラン属  右はシラー・カンパヌラタ ユリ科 ツルボ属

 
京都府岩船寺にて(5月) 左は大手毬 スイカズラ科 ガマズミ属  右は瓢箪木 スイカズラ科 スイカズラ属

 
京都府木津川市岩船寺にて(5月) 左はミヤコワスレ キク科 ミヤマヨメナ属  右は白雪げし ケシ科 エオメコン属


 
木津川市岩船寺にて(5月) 左はアジサイ アジサイ科 アジサイ属  右はウツギ アジサイ科 ウツギ属


大徳寺派
京田辺市 臨済宗大徳寺派
霊瑞山報恩庵一休寺
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頓知で知られた一休さん
が晩年に復興させた寺院

正応年間(1288~)南浦紹明が開いた妙勝寺が,兵火にあい衰退したが、康正2年
(1456)に一休宗純が中興し、宗祖を慕い酬恩庵と号した。一休は文明13年(1481)
88歳でここで亡くなった。金春禅竹が総門の前で一休のためにを演じたという。

大徳寺のページへ


 京田辺市霊瑞山酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺にて(4月) 総門 


京田辺市一休寺にて(4月) 参道 左の建物は方丈

一休寺にて(4月) 本堂への参道 
クリックで正面拡大

 
 京田辺市酬恩庵一休寺にて(4月) 総門を入ると参道 


 京田辺市一休寺にて(4月) 手水舎 

 京田辺市一休寺にて(4月) 鐘楼(重文) 

 京田辺市一休寺にて(4月) 浴室(重文) 
蒸し風呂形式の風呂 

 京田辺市一休寺にて(4月) 方丈(中央;重文) 
 
クリックで狩野探幽の屏風画

   
 京田辺市一休寺にて(4月) 狩野探幽筆の屏風画 とんちの橋 
クリックで拡大

 
 京田辺市一休寺にて(4月) 酬恩庵本堂(重文) 1450年に室町幕府六代目将軍足利義教の帰依により建立、
山城・大和地方の唐様建築中で、最も古い建造物で、重要文化財。本堂には本尊釈迦如来坐像と文殊・普賢菩薩像が安置。

 
 京田辺市一休寺にて(4月) 本堂への参道


京田辺市一休寺にて(4月) 虎丘庵

京田辺市一休寺にて(4月) 一休禅師の墓の門 クリックで説明板
一休禅師は後小松天皇の皇子であると説明板にあり、禅師の墓には菊の御紋章がある。一休の母は楠木正成の孫ということから、
一休禅師は大楠公の玄孫にあたる。一休禅師の母の墓は門真市三ッ島にある(産経新聞H26.7.13より)。



 京田辺市酬恩庵一休寺にて(4月) 庫裏(重文) 


 京田辺市一休寺にて(4月) 宝物殿 
クリックで一休禅師座像 

京田辺市一休寺にて(4月) 唐門(重文)
左の大屋根は方丈(重文) 唐門の向うが名勝庭園

 
 京田辺市一休寺にて(4月) 一休禅師墓所説明板(写真左;クリック拡大) 中門 


京田辺市一休寺にて(4月) 方丈庭園 クリックで名勝庭園の説明板 右の建物は一休禅師の墓

 
 一休寺にて(4月) 方丈庭園 正面は一休禅師の墓

 
 京田辺市一休寺にて(4月) 方丈庭園 


京田辺市一休寺にて(4月) 庭園の蹲

京田辺市一休寺にて(4月) 方丈庭園  正面は虎丘庵の屋根

 
 京田辺市酬恩庵一休寺にて(4月) 開山堂  妙勝寺旧蹟碑(クリックで拡大) 

 
京田辺市一休寺にて(4月) 一休禅師像
クリックで拡大

 京田辺市一休寺にて(4月) 少年一休像 
クリックで右奥にとんち話の橋模型を拡大 

   
 京田辺市一休寺にて(4月) 一休禅師墨蹟碑 一休禅師像 夫々クリックで拡大


 京田辺市一休寺にて(4月) 江庵 

 京田辺市一休寺にて(4月) 東司(重文) 

 京田辺市一休寺にて(4月) クリックで拡大
能楽師 観世流三代の音阿弥の墓 

 京田辺市一休寺にて(4月) 茶人の墓
    

 
 京田辺市一休寺にて(4月) 境内の一部


浄土宗
京田辺市 浄土宗

西念寺
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京田辺市にて(4月) 浄土宗西念寺 本堂


京田辺市にて(4月) 浄土宗西念寺 山門

 
京田辺市にて(4月) 浄土宗西念寺 鐘楼 堂宇


浄土宗
木津川市 真言宗智山派
普門山蟹満寺

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秦氏一族の創建と察せられる古刹
今昔物語にある「蟹の恩返し」の伝承がある

当寺の創建は、発掘調査などから飛鳥時代後期(7世紀末)、遅くとも今昔物語の伝説から平安時代以前と
推定される。その後荒廃したが、江戸時代、正徳元年(1711)智積院の僧亮範が再興した。寺の所在地の地名綺田
(かばた)から蟹幡などとも表記され、今昔物語集等に記載がある蟹の恩返しの伝説と結びついて蟹満寺
となったらしい。蟹満寺は当時の豪族、
綺氏(秦氏)による建造と思われる。


京都府木津川市にて(2月) 真言宗智山派普門山蟹満寺 本堂 
クリックで拡大

  
京都府木津川市にて(2月) 真言宗智山派普門山蟹満寺本堂内部 中央は本尊の釈迦如来(国宝) 
クリックで拡大

 
京都府木津川市にて(2月) 真言宗智山派普門山蟹満寺 山門 
クリックで拡大

 
京都府木津川市にて(2月) 真言宗智山派普門山蟹満寺 寺号額と本堂の蟹 
クリックで拡大

 
京都府木津川市にて(2月) 真言宗智山派普門山蟹満寺 弘法大師像と境内 
クリックで拡大

 
京都府木津川市にて(2月) 真言宗智山派普門山蟹満寺 地蔵像 
クリックで拡大

 
京都府木津川市にて(2月) 真言宗智山派普門山蟹満寺 庫裏と境内 
クリックで拡大


修験宗
宇治市 本山修験宗別格本山
西国第十番札所

明星山 三室戸寺

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宝亀元年(770)光仁天皇の勅願で行表が創建したが衰え、康和年間(1099~)三井寺の僧隆明
より中興された。寛正年間(1460~)の火災で伽藍を失い、再興されたが、天正元年(1573)織田信長に
焼かれた。現存の本堂は江戸時代の文化11年(1814)に再建。本尊は秘仏・千手観音像で
ある。
三室戸寺の説明動画   三室戸寺の紫陽花の動画解説


宇治市三室戸寺にて(6月) 三室戸寺本堂 写真クリックで駒札

 
宇治市三室戸寺にて(6月) 本堂前と本堂 
クリックで拡大

 
宇治市三室戸寺にて(6月) 本堂前と本堂の奉納額


 宇治市三室戸寺にて(11月) 本堂(左上) 納経所 阿弥陀堂(屋根) 鐘楼 三重塔(最上部)


宇治市三室戸寺にて(11月) 本堂 前面修復中につき側面から撮影

 宇治市三室戸寺にて(11月) 阿弥陀堂 

 
宇治市三室戸寺にて(11月) 与楽園

 

 宇治市三室戸寺にて(6月) 与楽園の紫陽花と山門

 
三室戸寺にて(6月)  与楽園の紫陽花と山門  参道の句碑(クリックで拡大京都句碑の頁へ
岡井省二<1925~2001> 「あじさゐの 色をあつめて 虚空とす
本堂前には松尾芭蕉の句碑山吹や 宇治の焙爐(ほうろ)の匂うとき」があります

 
宇治市三室戸寺にて(6月)  与楽園の紫陽花と山門

 
宇治市三室戸寺にて(6月)  与楽園の紫陽花(花弁は薄くて小さい)

 
宇治市三室戸寺にて(6月) 与楽園 背景は三室戸寺境内「花の茶屋」

 
 宇治市三室戸寺にて(11月) 秋の与楽園

 
 宇治市三室戸寺にて(11月) 与楽園 花の寺 


宇治市三室戸寺にて(6月) 与楽園 花の寺

 
宇治市三室戸寺にて(6月) 与楽園 花の寺

 
宇治市三室戸寺にて(6月) 与楽園 花の寺

 
 宇治市三室戸寺にて(11月) 山門           三室戸寺の碑

 
宇治市三室戸寺にて(6月) 参道

 
宇治市三室戸寺にて(6月) 参道

 
宇治市三室戸寺にて(11月) 参道 右に与楽園


宇治市三室戸寺にて(6月) 三重塔 


 宇治市三室戸寺にて(11月) 納経所 


 宇治市三室戸寺にて(11月) 鐘楼

宇治市三室戸寺にて(11月) 三重塔

 
宇治市三室戸寺にて(6月) 寺院説明板(クリックで拡大)と鐘楼

 
宇治市三室戸寺にて(11月) 十八神社


 
 宇治市三室戸寺にて(11月) 十八神社内摂社 右は十三の石塔


 宇治市三室戸寺にて(11月)源氏物語 浮舟 

 宇治市三室戸寺にて(11月) 

  
宇治市三室戸寺にて(11月) 狛兎    勝運の牛   若貴の必勝祈願手形

 

宇治市三室戸寺にて(6月) 宇賀神と薬師如来

 
宇治市三室戸寺にて(11月)新羅大明神 三室戸寺は観音菩薩を本尊とし、平安時代に天台宗大津三井寺の
別院として創建された。その時、園城寺の新羅善神堂を勧請したもの。  右は新羅大明神説明碑


妙心寺派
福知山市 臨済宗妙心寺派
紫金山天寧寺
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室町幕府足利四代将軍義持の祈願寺

南北朝時代、揚子江中流鎮江の金山寺で十年間修行した愚中周及は学問をはじめ
絵画・建築等々、多くの文化を中国から学んで帰国し、紫金山天寧寺を開山した。天寧寺は
桃山時代に衰微したが、寛永12年(1635)萬休彗重が妙心寺より入寺して妙心寺派を再興。

 
 
福知山市紫金山天寧寺にて(3月) 山門への石段 右は紫金山天寧寺全景

 
 福知山市天寧寺にて(3月) 修業堂 右は天寧寺薬師堂

 
 福知山市天寧寺にて(3月)  開山堂と山門

 
 福知山市天寧寺にて(3月) 薬師堂薬師如来 右は薬師堂天井の竜(原在中画伯筆)

 
 福知山市天寧寺にて(3月) 山門内側
  右は山門の額「天寧寺」

 
 福知山市天寧寺にて(3月) 紫金山天寧寺大方丈
 右は鐘楼


本願寺派
福知山市 浄土真宗本願寺派
朝燿山明覚寺
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明治の福知山城取壊しにより、
城門の一つが移築された

明覚寺は豊臣秀吉の大阪城構築の頃、天正12年(1584)、高橋越後守釈西願が天田郡
六人部村に開山した。後に、江戸時代初期に福知山城が築かれ、城下町の整備に伴い町の
外縁に配置された。明治29年(1896)の大洪水により多くの被害を受けたが
明治31年(1898)に再建された。山門は福知山城の城門を移築したもの。

 
福知山市にて(3月) 浄土真宗本願寺派 朝耀山明覚寺 山門(元福知山城の門

明治政府の城取壊しの政令により福知山城が壊され、その折の城門がこの寺の山門(写真左)となっている。


黄檗
宇治市 黄檗宗大本山
黄檗山萬福寺

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隠元豆やお茶、西瓜や蓮根等をもたらした
中国福建省の隠元禅師が開創した中国明朝様式の禅寺

萬福寺は1661年に隠元禅師によって開創された。禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、
福建省の黄檗山萬福寺の住職であった。日本からの招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に
来朝され、宇治に中国と同じ寺名・黄檗山萬福寺と名付けて創建した。後に幕府の政策等により、宗派を
黄檗宗と改宗し現在に至り、日本の禅宗は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されている。萬福寺の
伽藍建築などはすべて中国の明朝様式で、美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理・隠元豆・蓮根・孟宗竹(筍)
西瓜・木魚なども隠元がもたらし、江戸時代の文化全般に影響を与えた。中でも中国風精進料理である
普茶料理は日本と異なり、美しく盛りつけられ、高タンパク・低カロリーで栄養面にも優れ、
楽しく感謝して頂く事に普茶料理の意味が込められているという。(萬福寺HPより)

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月) 総門 
境内配置図 右は三門

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月)放生池腰に見る三門
 右は天真院 総門と同じ中国風の門(中国福建省の萬福寺と同じ様式)。

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月)天王殿  右は天真院庭

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月)天王殿
  七福神の一つ「布袋」を祀る(右写真クリックで全山の山内案内図


宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月) 天王殿から鐘楼への廊下

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月)大雄宝殿

 
宇治市黄檗山萬福寺にて(12月)大雄宝殿 釈迦牟尼佛と羅漢像 右写真は法堂より廊下を経て大雄宝殿


宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月)  法堂

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月) 法堂 

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月) 開板(木魚の原型)
  右は合山鐘

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月)  東方丈庭園

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月)  寿塔
 右は松隠堂


宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月) 開山堂

 
宇治市黄檗山萬福寺にて(12月) 鐘楼  右は通玄門

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月) 納骨堂
 右は禅堂

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月)中和園


宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月) 萬寿院

 
宇治市 黄檗山萬福寺にて(12月) 萬福寺門前
  右は門前の龍目井

 
宇治市 黄檗山萬福寺前にて(12月) 萬松院


亀岡
亀岡市 天台宗
西国第二十一番札所

菩提山穴太寺
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今昔物語の身代わり観音に描かれている名刹
穴太寺観音縁起によれば、慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創した。平安時代末期には、
当寺の聖観音像は今昔物語集に身代わり観音・観音霊場として知られていた。今昔物語集によると、丹波国の郡司が
都の仏師に聖観音像を造らせ、褒美として名馬を与えたが、惜しくなった郡司は、家来に仏師を弓矢で殺させた。
ところが、仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっていた。郡司は改心し、仏道に励んだという。



亀岡市 穴太寺にて(10月)  仁王門  クリックで拡大

 
 亀岡市 穴太寺にて(10月)  仁王門  *西国三十三札所めぐり

 
菩提山穴太寺にて(10月) 本堂 右は寺院説明板(クリックで拡大
本堂脇陣にふとんを被った「なで仏様」がいる。
等身大の釈迦涅槃像(寝釈迦)で、悪いところをなでて祈れば、病が治ると云う。

 
 亀岡市 穴太寺にて(10月) 本堂  右は手水

 
 亀岡市 穴太寺にて(10月)

 
京都府亀岡市菩提山穴太寺にて(10月) 多宝塔  右は鐘楼

 
亀岡市 穴太寺にて(10月) 方丈庭園

 
 亀岡市 穴太寺にて(10月) 方丈表門と方丈 


 亀岡市 穴太寺にて(10月) 額より

亀岡市 穴太寺にて(10月) 鎮守堂


宇治
宇治市 単立寺院
世界遺産 朝日山平等院
(鳳凰堂)

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鳳凰堂(阿弥陀堂)は約千年前に建設され今に残る
木造建築(国宝)。本尊の阿弥陀坐像は3メートルを超える(国宝)。
源氏物語光源氏のモデルといわれる源融の別荘が宇多天皇や藤原道長等を経て、藤原頼通が永承7年(1052)に仏寺とし、
平等院となった。1053年に鳳凰堂を建立し、現在に至る。約千年前の建物と阿弥陀如来像がそのまま現存する国宝である。
宗派は一時天台宗と浄土宗を兼ねたが、現在はどの宗派にも属さない単立仏教寺院である。世界遺産に指定されている。



京都府宇治市にて(7月) 朝日山平等院 鳳凰堂 
写真クリックで改修前の鳳凰堂  拡大境内図
平成8年頃、右後方に15階建マンションが建ち、風致が損なわれた。これが宇治市都市景観条例制定のきっかけとなった。
当面の対策として平等院境内にクスノキが植樹され、高さ10メートルまで成長すると、マンションが隠れる筈である。
(この写真にはマンションが入らないように撮影した)

 
京都府宇治市にて(7月) 平等院 鳳凰堂の新しい金色の鳳凰一対

 
京都府宇治市にて(7月) 朝日山平等院 鳳凰堂 写真クリックで拡大

 
京都府宇治市平等院鳳凰堂にて(7月) 阿弥陀如来坐像と二重天蓋
(寺院パンフレットより) 
写真クリックで拡大

 
京都府宇治市平等院鳳凰堂にて(7月) 堂内の雲中供養菩薩(52基の一部)
(寺院パンフレットより) 写真クリックで拡大


京都府宇治市にて(7月) 朝日山平等院 鳳凰堂 
写真クリックで拡大

 
京都府宇治市にて(5月) 世界遺産 朝日山平等院 鳳凰堂・阿弥陀堂(国宝)
クリックで拡大別写真  *京の旅

 
京都府宇治市平等院にて(4月) 平等院の藤(観音堂前) クリックで拡大

 
京都府宇治市にて(5月) 世界遺産 朝日山平等院 鳳凰堂より阿字池を見る クリックで拡大

 
京都府宇治市にて(7月) 平等院表門 右は表門内側より  
クリックで拡大

 
京都府宇治市平等院にて(4月) 平等院の藤(表門脇と観音堂前) クリックで拡大

  
京都府宇治市にて(7月) 朝日山平等院 最勝院 
クリックで拡大
現在の平等院は、天台宗系の最勝院と浄土宗系の浄土院が共同で管理されている。

 
京都府宇治市にて(7月) 朝日山平等院 最勝院 不動堂 クリックで拡大

 
京都府宇治市にて(1月) 世界遺産 朝日山平等院 浄土院本堂 右は羅漢堂 クリックで拡大

 
京都府宇治市にて(7月) 朝日山平等院 浄土院大書院と浄土院本堂を南門より(写真左クリックで拡大
写真右は(1月)石段の上の養林庵書院から石段を降りて浄土院大書院前へ


 
京都府宇治市平等院浄土院にて(7月) 千利休の前でお茶をこぼした逸話の持ち主
宇治茶祖竹庵の碑誌と右は狂言で知られている源頼政家来通円の墓 
クリックで拡大

  
京都府宇治市にて(7月) 世界遺産 朝日山平等院
浄土院の扁額、説明板、船乗観音とその説明板 
クリックで拡大

 
京都府宇治市にて(7月) 世界遺産 朝日山平等院 観音堂  クリックで拡大

 
宇治市にて(7月) 平等院南門(写真クリックで改装前の南門) 右は旧南門説明板(クリックで拡大


 宇治市平等院最勝院にて(1月)
源頼政の墓 
クリックで拡大
源頼政<1104~1180>辞世
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなるはてぞ悲しかりける

平家物語巻四に記されている

宇治市平等院扇芝にて(1月
観音堂の裏扇芝の
源頼政の歌

源頼政<1104~1180>
花さきてみとなるならば後の世に
もののふの名もいかでのこらん

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宇治市平等院扇芝にて(1月
平知盛に敗退しここで自刃
観音堂の裏の「扇芝」碑

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京都府宇治市にて 朝日山平等院 鳳凰堂東南隅より 左は修復前(1月) 右は修復後(7月)写真クリックで拡大


 
京都府宇治市平等院にて(1月)鐘楼(クリックで複製した梵鐘を拡大) 右は7月の鐘(鳳翔館出口付近より)
この鐘楼の梵鐘は複製(実物は国宝であり鳳翔堂にて保管展示) 右写真クリックで拡大

   
京都府宇治市平等院にて(7月) 鎌倉時代の春日灯篭と石造層塔 
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京都府宇治市平等院東側の公園にて(7月) 平等院多宝塔跡(復元基壇) クリックで拡大
藤原頼道(よりみち)の娘の寛子(かんし)により、1061年に建立された(平成6年に発掘)

  
京都府宇治市平等院にて(4月) 平等院の藤(観音堂前) クリックで拡大

 
京都府宇治市平等院にて(7月) 夏にも咲く平等院の藤(観音堂前と南門前広場) クリックで拡大





宇治市

宇治市 曹洞宗

興聖寺
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曹洞宗の祖、道元が越前の永平寺の前に深草に建立した古刹
廃寺となったが、淀城主永井氏によって宇治の現在地に中興した

道元は宋から安貞元年(1227)に帰国し、建仁寺に身を寄せた後、深草の安養院に閑居した。その後、
天福元年(1233)、道元は深草に興聖寺を開創する。当初、観音導利興聖宝林寺と号した。当時の興聖寺には
仏堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていたが、比叡山延暦寺の弾圧を
受け、寛元元年(1243)、道元が越前に下向して以降荒廃し廃絶した。その後慶安2年(1649)、淀城主の
永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興し、現在に至る。


  
宇治市にて(7月) 曹洞宗佛徳山興聖寺本堂(法堂) 左写真は本堂の扁額と右写真は伏見桃山白の遺構 
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写真右の血の手形のある天井板(伏見桃山城の血の床板が天井に使用されている)がクリックでぼんやり見える
扁額は四条天皇勅額で「興聖寳林禅寺」とある

  
宇治市にて(7月) 曹洞宗佛徳山興聖寺本堂の仏壇と本尊の釈迦三尊 クリックで拡大

 
宇治市興聖寺にて(7月) 左写真は本堂より見る薬医門 右は竜宮門より見る薬医門 クリックで拡大

 
宇治市にて(7月) 曹洞宗佛徳山興聖寺 総門 門を入ると緑濃い琴坂参道 クリックで拡大

 
興聖寺総門から山門への参道 右は琴坂を振り返り見る総門。その向こうに宇治川が見える。 クリックで拡大
この参道を琴坂と言い、とくに紅葉が美しく、宇治十二景の一つである。

 
宇治市にて(7月) 曹洞宗佛徳山興聖寺 山門(竜宮門) 奥に薬医門と本堂が見える 
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宇治市にて(7月) 曹洞宗佛徳山興聖寺 山門(竜宮門) 奥に琴坂参道と総門が見える クリックで拡大

 
宇治市興聖寺にて(7月) 薬医門と本堂との中庭 寺院境内図 クリックで拡大
写真左は中庭の西南(庫裏から医王門へ) 写真右は中庭の東北部(本堂から庫裏へ) 

  
宇治市興聖寺にて(7月) 薬医門と本堂との中庭 寺院境内図 クリックで拡大
写真左と写真中央は中庭の西北(僧堂から本堂へ) 写真右は中庭の東南部(本堂から庫裏へ) 

   
宇治市興聖寺にて(7月) 開山堂・老梅庵 開山道元禅師を祀る 
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この開山堂・老梅庵は塔頭東禅院にあった大悲殿を1750年に興聖寺へ移築されたものらしい。

 
宇治市興聖寺にて(7月) 大書院左横の庭 右写真は大書院右横の方丈との間の庭園 クリックで拡大

  
宇治市曹洞宗佛徳山興聖寺にて(7月) 鐘楼 
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宇治市興聖寺にて(7月) 秋葉大権現(左写真の中央の赤い小堂) 右写真は経蔵 クリックで拡大

 
宇治市興聖寺にて(7月) 中興開基元淀城主永井家を祀る 天竺殿  クリックで拡大
永井家歴代の位牌が天竺殿と観音堂に納められている


   
宇治市興聖寺観音堂にて(7月) 宇治市文化財観音像と説明板 クリックで拡大
観音堂には興聖寺を再興した淀城主永井氏の家系図があった。

 
宇治市興聖寺にて(7月) 衆寮 右は三面大黒尊天

   
宇治市興聖寺にて(7月) 屋根の由緒ある家紋 坪庭 建物間の渡り 木魚 
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宇治市興聖寺にて(7月) 茶筅塚 古来より伝承の茶祭り説明板  クリックで拡大


宇治市興聖寺にて(7月) 曹洞宗佛徳山興聖寺駐車場より 中央生垣は茶筅塚 クリックで拡大

 
宇治市興聖寺にて(7月) 塔頭東禅院 
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興聖寺の開山堂・老梅庵はここにあったという。


 
宇治市興聖寺にて(7月) 塔頭東禅院 クリックで拡大

  
宇治市にて(7月) 興聖寺および塔頭東禅院の前の宇治川風景 右は興聖寺北側の宇治発電所放水路 クリックで拡大

 
宇治市にて(7月) 興聖寺および塔頭東禅院の前の宇治川風景 正面の塔の島には十三の石塔 クリックで拡大
石塔の右奥に宇治平等院鳳凰堂がある


宇治市
宇治市 曹洞宗鳳翔山

靖国寺
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全国の戦没英霊を仏式に合祀する日本唯一の寺
当寺は靖国神社に対して、戦没英霊を仏式に合祀する日本唯一の寺である
。昭和4年、中井祖門師が
当時の田中義一首相の賛同を得て発願され、昭和16年より全国を托鉢勧募し、本堂建立に着手した。
各地の信徒の寄進により、昭和18年11月には入佛式を修行、昭和24年4月に勤皇山靖國寺として落慶した。
以来、戦没者の英霊が全国より安置され、昭和26年に靖国神社より240万余の御分霊を迎えて祀っている。
御開山には永平寺の71世貫首(曹洞宗管長)高階瓏仙禅師を迎え、永平寺御直末寺院となった。



宇治市にて(9月) 曹洞宗鳳翔山靖国寺 山門 クリックで拡大

  
京都府宇治市にて(9月) 曹洞宗鳳翔山靖国寺 山門の左右仁王像 山門内側 クリックで拡大


宇治市にて(9月) 曹洞宗鳳翔山靖国寺 本堂 クリックで拡大

  
宇治市にて(9月) 曹洞宗鳳翔山靖国寺 本堂 クリックで拡大
右端の扁額は大本山永平寺・七十八世貫首 宮﨑奕保禅師の書

 
宇治市にて(9月) 曹洞宗鳳翔山靖国寺境内 鐘楼堂 クリックで拡大

  
宇治市曹洞宗鳳翔山靖国寺にて(9月) 左は一願成就不動明王尊の不動堂 中央は開山堂 右は仏舎利塔 クリックで拡大

  
宇治市曹洞宗鳳翔山靖国寺にて(9月) 靖国寺境内 左は水子地蔵尊 右写真は墓地 クリックで拡大
近隣マップ


舞鶴
舞鶴市 真言宗天橋立
西国第28番札所

成相山成相寺

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日本三景天橋立の東端、ケーブルカーの頂上駅
股のぞきから、さらにバスで行く山上の寺院

(但しドライブウェー経由で自家用車で行ける)


天橋立にて(10月)西国28番札所 成相寺 本堂  女山伏の姿が見える  

 
天橋立にて(10月)西国28番札所 成相寺 本堂 写真は五重塔落慶法要(H19年)


京都府天橋立にて(10月) 成相寺 地蔵 

京都府天橋立にて(10月) 成相寺への途中展望台


舞鶴
舞鶴市 真言宗醍醐派
西国第29番札所

青葉山松尾寺

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当寺の本尊馬頭観世音は三十三霊場中唯一の観音像であり、農耕、牛馬畜産、車馬交通に因む信仰を広く集めている。
中国渡来の威光上人が青葉山中の松の木の下で修行中に馬頭観音像を感得し、和銅元年(708)草庵を造り観音像を安置した。
元永2年(1119)に鳥羽天皇の行幸があり、信仰をあつめ繁栄したが、その後、何回かの火災や、織田信長の兵火も蒙ったが、
細川幽斎や京極家の援助で復興し、享保15年(1730)に現在の寺観になったという。
参考ネット

京都府舞鶴市 西国29番札所 青葉山松尾寺 参道

 舞鶴市 青葉山松尾寺本堂及び手水所

舞鶴市 西国29番札所 青葉山松尾寺 

京都府 舞鶴 西国29番札所 青葉山 松尾寺 仁王門

 京都府 舞鶴 西国29番札所 松尾寺 大師像 

 京都府 舞鶴 西国29番札所 松尾寺 鐘楼付近

舞鶴市青葉山松尾寺にて(10月)
高野槙にかくれた弘法大師

写真左2枚は山門方面から見下ろした参道


舞鶴
舞鶴市 臨済宗妙心寺派
橋立山智恩寺

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日本三景天橋立の西端、回旋橋の傍の寺院

舞鶴市天橋立 臨済宗妙心寺派 舞鶴市天橋立にて(10月) 本堂文殊堂 エリア地図


舞鶴市天橋立にて(10月) 回旋橋

舞鶴市天橋立にて(10月) 山門より文殊堂


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